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私の旅日記2004年

一茶双樹記念館〜一茶の句碑〜
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 総武流山電鉄「平和台」駅を降り、江戸川に向かって歩くと、 一茶双樹記念館 (HP)がある。


一茶双樹記念館


一茶双樹記念館の前に流山市教育委員会の説明が書いてあった。

小林一茶寄寓の地

流山市指定記念物第一号

 江戸時代の俳人小林一茶(1763〜1827)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧を得ていた。

 天明2年(1782年)頃、一茶が下総馬橋(松戸市)の俳人 大川立砂 (油屋)に奉公していたという伝承があるそうだ。

 天明5年(1785年)頃、今日庵 森田元夢 の門人となったらしい。

 天明7年(1787年)、葛飾派の指導者渭浜庵(いひんあん) 溝口素丸 の執筆(しゅひつ)を務める。葛飾派の俳匠二六庵竹阿の門人となる。竹阿は葛飾派二世馬光の門弟。明和7年(1770年)に大阪に移住し、寛政2年(1790年)には彼地で没している。竹阿と一茶との師弟関係はよく分からない。実際は元夢に俳諧を学んだようだ。

 寛政4年(1792年)から6年間ほど一茶は京阪、西国、四国、九州方面を俳諧旅行。

 寛政12年(1800年)頃に一茶は二六庵を襲名している。

 流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂(みりん)の開発者のひとりと言われる五代目秋元三左衛門である。三左衛門(1757〜1812)は双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は享和3年(1803年)から文化14年(1817年)の15年間に50回以上も流山に来たことが句帖や日記からわかっている。一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。

 享和3年(1803年)、一茶は本所五ツ目大島の 愛宕神社 に住む。

 文化元年(1804年)10月11日、一茶は馬橋から流山に入り、翌12日 小金 で「翁会」に参加、布川へ。

   十日 晴 馬橋ニ入

   十一日 晴 流山ニ入

   十二日 晴 小金 翁会 布川二入

『文化句帖』(文化元年10月)

13日布佐、17日田川と巡り、20日江戸に入る。

   十三日 晴 布佐操見物

   十七日 晴 田川ニ入

   廿日 晴 江戸入

『文化句帖』(文化元年10月)

 翌21日、双樹より家財道具が届く。一茶は本所の愛宕社をひきはらい本所相生町5丁目に移転したらしい。

   廿一日 晴 家財流山ヨリ来

『文化句帖』(文化元年10月)

 文化7年(1810年)6月13日の朝、一茶は蕉雨と 山野堤 から猪牙(ちょき)舟に乗り、小菅川(綾瀬川)に入る。

向の木合歓の仲間の花らしや   蕉雨

双樹を訪ねたが、留守。

留守宅に泊まり、翌14日 小金原 から 守谷 へ向かう。

 文化8年(1811年)5月11日、一茶は斗囿を訪れるが留守だったので、流山へ。

   十一日 晴 流山ニ入

『文化句帖』(文化元年10月)

 文化9年(1812年)2月12日、秋元双樹と連れだって 紅竜山東海寺 (布施の弁財天)に詣でる。

同年10月27日、双樹没す。29日、双樹葬。

折々のなむあみだ仏聞きしりて米(よね)をねだりしむら雀哉

俳句ではなく、和歌である。

同年11月14日、一茶は江戸を引き上げる。

 流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として、平成2年12月4日付けで流山市指定記念物(史跡)第一号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。

流山市教育委員会

「秋元本家」の展示は撮影禁止。

一茶の句碑がある。


夕月や流れ残りのきりぎりす

句碑の説明が書いてあった。

夕月や流れ残りのきりぎりす   文化句帖

 文化元年(1804年)9月2日、小林一茶が流山で詠んだ句。

 旧暦9月の作。この頃雨が多く、流山はとうとう洪水に見舞われた。家も木立も押し流されんばかりに荒れ狂った洪水が、夕方には漸くおさまり、空には淡い夕月がかかっている。どこかの物陰で生き残りのきりぎりすが鳴き始めた。

 この句は、句碑を建立するにあたって、小林一茶寄寓の地保存整備審議会が選定したものである。

 書体は、文化句帖の所蔵者新潟県新井市の入村公氏のご承諾を得て、同句帖から採った。

 石材は、一茶記念館 長清水哲氏の協力により、一茶が生まれ育った長野県上水内郡信濃町柏原の黒姫山のものを用いた。

 なお、句碑は柏原から見守られる方向に建っている。

 文化元年(1804年)9月1日、一茶は根本という村から流山にやってきた。根本は現在の松戸市役所周辺の地名と推定される。


   一日 晴 亦洪水加三寸。根本といへる邑の圦樋(いりひ)より切込。

(あさがほ)やたぢろぎもせず刀根の水

   二日 晴 亦洪水加六寸。水ハいよいよ増つゝ、川添の里人は手に汗を拳(にぎ)り、足を空にして立さハぐ。今切こミしほどの圦樋(いりひ)・彼堤とあはれ風聞に胸を冷して、家々のおどろき大方ならず。

魚どもの遊びありくや菊の花

夕月や流残りのきりぎりす

『文化句帖』(文化元年9月)

圦樋(いりひ)は水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋(とい)

3日、一茶は 布川 に入る。

樋口双樹亭


赤城神社 へ。

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