このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記  〜 千葉

東漸寺〜木曽義昌〜
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旭市イの県道71号銚子旭線の北側に東漸寺という寺がある。


殿玉山東漸寺


真言宗智山派 の寺である。

本堂の手前右手に鐘楼がある。


鐘楼の左に芭蕉の句碑があった。


よく見れば薺花咲く垣根かな

出典は 『続虚栗』

貞亨3年(1686年)、芭蕉44歳の時の句。

平成5年(1993年)、芭蕉の三百回忌に建立。

東漸寺に「木曽義昌公御廟所」がある。


旭市指定史跡

 戦国武将木曽義昌及び夫人、ならびに木曽家代々供養石塔 3基

同 水葬跡石塔 1基

 「木曽義昌」は信濃国木曽地方を領有し、戦国時代に武田、徳川、織田、豊臣の各武将に伍して活躍した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の命によって下総国網戸(現在の旭市イ)1万石の城主として、山国から潮騒の地に移された。僅か5年の在世だったが、桜木を愛し、城下町をつくり、新田開発などに力を尽くしたという。

 ここ真言宗殿玉山東漸寺は文禄2年(1593年)義昌に招かれた悦道和尚が開基した。義昌は菩提料を寄進して厚く尊崇した。

 義昌は文禄4年(1595年)3月、56歳の波乱に富んだ生涯を終わった。供養塔は義昌及び夫人、ならびに木曽家代々のものである。なお脇に立つ六地蔵を刻んだ石灯籠「憧」は市内唯一のものである。

 義昌は寺の北側に広がる椿の海に水葬された。後年、椿の海は干拓されたために水葬地に墓塔が建てられた。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれている。明治44年改修された。

 義昌二百五十回忌に京都の国学者野々口隆正が、

「信濃よりいつる旭を志たひ幾て東の国にあととどめ見舞」

 と詠んだ。明治22年、新町名をつける際、発展の象徴である旭日とともに、この和歌の旭をとって旭町とつけられた。東漸寺及び地元では義昌死去の3月17日に毎年供養を行なっている。

旭市教育委員会

木曽義昌の法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。

「木曽義昌公御廟所」の手前右手に芭蕉の句碑があった。



赤々と日はつれ勿も金風

出典は『奥の細道』。

 元禄2年(1689年)7月、金沢から小松へ向かう途中に詠まれた句。

 寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌に建立。

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