このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

台雲寺〜蓑笠庵梨一墓〜
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坂井市丸岡町石城戸町に台雲寺という寺がある。


台雲寺


蓑笠庵梨一 墓 (市指定文化財 史跡)

台雲寺( 曹洞宗

 梨一は正徳4年(1714年)武蔵国児玉郡関村(現在、埼玉県本庄市児玉町)の関久和の次男として生まれ、幼名を収蔵といい、後に相行、字を子明、諱を干啓と称し、母方の高橋の姓を名乗った。幼年の頃より向学心が豊かで、特に俳句には秀でた才能があり、元文4年(1739年)梨一26歳の時、江戸の佐々間柳居の門に入り、俳諧を学んだ。

 縁あって地方役人として坂井郡下兵庫村(現在 坂井町下兵庫)の代官に着任した。その後宝暦13年(1763年)頃丸岡城下に移り、丸岡藩主有馬誉純の賓客として待遇を受け儒官となった。老いて安永年中(1772〜1781)石城戸に私塾蓑笠庵を開き多くの門人に学問を教えた。晩年は芭蕉の研究に没頭し、著書に『十三経通学』『芭蕉翁発句解書』などがあり、優れた業績を遺した。辞世の句に「咲く程に夜の間にこばす小萩かな」と詠んでいる。

 丸岡俳諧の基礎をつくり、天明3年(1783年)4月18日この世を去った。

 境内には墓と二百回忌供養の立派な句碑がある。梨一は正徳4年(1714年)に武蔵国児玉郡(現在の埼玉県)に生まれ、幼少より俳諧には秀でた才能があった。

 丸岡藩では、彼を招聘して石城戸に住まわせ、藩士に講義を行なわせた。

 この私塾を蓑笠庵と呼ぶようになった。晩年芭蕉の研究を極め、優れた業績を残し、丸岡俳諧の祖となった。

 天明3年(1783年)病に倒れ、台雲寺に葬られた。

梨一の句碑


咲くほとに夜の間にこほす小萩かな

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