このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
蓑笠庵梨一
母方の高橋姓を名乗った。
佐久間柳居
に俳諧を学ぶ。
正徳4年(1714年)、武蔵国児玉郡関村(現在、本庄市児玉町)の関久和の次男として生まれる。
元文4年(1739年)、26歳の時に江戸の佐々間柳居の門に入る。
宝暦11年(1761年)、48歳で坂井郡下兵庫村(現在 坂井町下兵庫)の代官に着任。
宝暦13年(1763年)、50歳の時に職を辞し、
丸岡
に居を定める。
丸岡城
明和2年(1765年)、梨一は吉野へ旅をする
『大和紀行』
。京で
蝶夢
を訪れる。
明和6年(1769年)、
『
俳諧
有の儘』
(闌更編)。梨一序。
安永年中(1772〜1781)石城戸に私塾蓑笠庵を開く。
安永4年(1775年)、木兎坊風石は象潟行脚の帰途梨一を訪れている。
丸岡の梨一翁甚尊き人にて、数日の
名こり尽かたくおもふ也
より添ひもよく笠脱ぬ萩の本
木兎
せめて月あり菊の家の水
梨一
『二度の笠』
安永6年(1777年)8月、
象潟
を訪れる。
象潟はうらむに似たりと祖翁の妙詞に、此江の風情は尽たりといふべし。されどたまたま爰に眺望して、其句のなからんは、いと本意なき業なめりと、只空吟、折にふれたるかたちのみを題して
象潟や墨絵の中に花一本
梨一
『旅客集』
(第4冊「仁」)
安永7年(1778年)8月、『奥細道菅菰抄』(梨一自序・
蝶夢
跋)刊。
天明3年(1783年)4月18日、70歳で没。
台雲寺
に葬られた。
梨一の句碑
咲くほとに夜の間にこほす小萩かな
梨一の句
うぐひすや夜着の岩戸も明はなれ
『松しま道の記』
あさがほもすゑ一輪の寒さかな
『
蕉門
むかし語』
長い日は空へも遠し舞ひばり
『おもかげ集』
秋立ぬ起て何着ん老の肌
『
俳諧
有の儘』
しら梅の寒さも障子ひとへ也
『岱表紙』
むらむらと小魚浮立春田かな
『
俳諧
菊の露』
夏の月たゞ短夜ぞ泣れける
『水薦苅』
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