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俳 人

五升庵蝶夢
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蝶夢の句

浄土宗の僧。 望月宋屋 に俳諧を学ぶ。

 諸国獅子門の俳人名録 『俳人名録』 に「蝶夢 京寺町阿弥陀寺塔頭帰白院」とある。

 可都里 『名録帖』 に「蝶夢岡崎阿弥陀院内 五升庵」とある。

 享保17年(1732年)11月1日、京都に生まれる。

 延享初め、 阿弥陀寺 の塔頭帰白院に移る。「京極中川の寺」である。

 宝暦12年(1762年)5月17日、 浮風 は61歳で没。

鶯や佛の國へ音を入る


 宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は蕉露を伴い木曽路を経て松島を遊覧。 『松しま道の記』

 明和2年(1765年)、 蓑笠庵梨一 が訪れる。

 京に入て蝶夢 法師かいほりを尋ぬ。

   宿からん経よむ巣にもほとゝきす

 法師にいさなはれて御室の花見にまかる。名にしあふ都の内外なれは、道々の風景尽すへくもあらねと、世を忘れたる此身には、取わきならひの岡兼好の旧跡なと、こよなふ目には留り侍る。


 明和3年(1766年)、伊賀の築山桐雨に芭蕉の真跡「春立や新年古き米五升」の短冊を寄贈され、東山岡崎に五升庵を結び隠棲する。

 今はむかし京極中川の寺よりこの東山 岡崎の草庵 に隠れ住みけるもはや十年になりぬ。


「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升菴址」


 明和4年(1767年)、 諸九尼惟然坊 旧庵「風羅堂」に「湖白庵」を結ぶ。 『湖白庵集』 。「湖白庵の記」。

 明和5年(1768年)、加古川の山李(青蘿)は人丸山下に 芭蕉の句碑 を建立。10月18日、蝶夢を招いて句碑供養をした。



蛸壺やはかなき夢を夏の月

 明和6年(1769年)4月15日、 田中千梅 は江戸深川で没。享年84歳。

鶯や音を入てなをさびしさも

『なつぼうず』

 明和6年(1769年)、 義仲寺 中興。

義仲寺


  同年、伊賀上野で『おくのほそ道』(素龍跋・ 去来 奥書)を発見。井筒屋刊行。

 明和7年(1770年)、蝶夢門下の 井上重厚落柿舎 再建。

 明和8年(1771年)3月、 素郷 は京に出て五升庵蝶夢に師事。

 明和8年(1771年)4月8日、蝶夢は桐雨と共に京を立ち、太宰府を参詣。6月中頃に帰庵。

 明和8年(1771年)、 加舎白雄 は五升菴の蝶夢を訪ねる。

 明和9年(1772年)、 『宰府紀行』 (蝶夢著)刊。桐雨跋。

 明和9年(1772年)10月12日、「芭蕉翁 幻住庵 舊趾」を建立。

芭蕉翁幻住庵舊趾


 安永3年(1774)春、 『芭蕉翁發句集』 刊。

 安永3年(1774年)3月、東山岡崎の五升庵焼失。

 安永3年(1774年)、 『丈草發句集』 (蝶夢編)刊。

 安永3年(1774年)、 『去來發句集』 (蝶夢編)刊。

 安永3年(1774年)12月、 『草根發句集』 (蝶夢著)自序。

 安永5年(1776年)、 『芭蕉翁發句集』 再刊。

 安永5年(1776年)、『芭蕉翁文集』(蝶夢編)刊。自序。蝶酔跋。

 安永7年(1778年)8月、『奥細道菅菰抄』(蓑笠庵梨一自序・蝶夢跋)刊。

 安永8年(1779年)2月21日、蝶夢は 沂風 を伴い京を発して出雲に旅立ち、4月5日、須磨に帰り着く。

 そもこの國にうまれ出たらん人の風雅の道をわきまゆる事、いづれか出雲八重垣のこと葉より出だるはあらずかし、その八雲たつといへる出雲の神にまうでん事、としごろの願ひなりしが、ことし安永八年二月も末の一日、空も霞こめて、雲雀さへづる野の色にうかれて、沂風法師を具して東山の草廬をいづるに、山陽道の古きをたどらんとて、難波のかたへは行かで、油の小路を南へ行くに、竹の林の中に小祠あり道祖神にておはしけるに。


 安永8年(1779年)、 横田柳几 は筑紫行脚の途上蝶夢を訪れている。

行先に待人のみそほとゝぎす
  
 蝶夢

『筑紫紀行』

 安永9年(1780年)3月6日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする。4月25日、江戸からの帰途、浜松の永田白輅と共に舞阪から舟で 新居の関所 に渡る。 『東遊紀行』

 天明元年(1781年)、蝶夢は 養老の滝 を訪れた。『養老瀧の記』

 天明2年(1782年)、『芭蕉門古人真蹟』を収集。

 天明3年(1783年)3月、 加藤暁台 は芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。

   祖翁の遠忌行はれけるに

手傳ひてともにさゝけん花かたみ
  五升庵
蝶夢

『風羅念仏』 (法会の巻)

 天明4年(1784年)2月27日、蝶夢は 野崎観音 を訪れている。『道ゆきぶり』

 天明4年(1784年)10月12日、尺艾は義仲寺時雨会に参列した後、沂風と京の五升庵 を訪ねた。

 天明6年(1786年)3月、蝶夢は遠州白須賀の虚白を訪れ、その案内で入野の竹村方壺を訪問、佐鳴湖西岸の 臨江寺 に逗留。方壺の案内で浜名湖巡り。

ふじの山を見むとて、とほく遠江の国まで下りけるに、をりふしの春雨に旅ごろものくづるばかりにあゆみづかれぬれば、入野の江のほとり竹村うし方壺といふが許に宿をかるに、あるじは旅のあはれをもわきまへしをとこにて、「かゝる在家のすまひのいぶせきには一夜のかり寐も心のどめ給じを」と、江のむかひ、臨江寺といふてらに具しゆきて、雨のやどりとす。


 天明6年(1786年)、『芭蕉翁俳諧集』(蝶夢編)刊。

 天明8年(1788年)2月26日、蝶夢は弟子の木姿を伴い中山道を下り江戸へ旅立つ。 重厚 とともに江戸に滞在。 『富士美行脚』

 天明8年(1788年)4月9日から1週間、加舎白雄 は 海晏寺 で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行う。蝶夢も法要に参加している。

海晏禅寺


 同年4月16日、蝶夢は木姿と共に江戸を出て、25日 蓮華寺 の住職鳥居柳也を訪ねている。

蓮華寺の芭蕉句碑


八九間そらて雨降る柳哉

五升庵蝶夢書。

 寛政元年(1789年)、飯塚の依兮は『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)刊行。

   この寺の什物とせる蕉門好士の手鑑
   を、ことし筑前飯塚の依兮の施主と
   なりて桜木にのせけるか、けふの折
   にあひたれは影前にそなへて

古き名にしくれあまねくする日哉
   沂風


 寛政2年(1790年)、竹松方壺は 臨江寺 の裏山に蝶夢の句碑を建立。



村松やみとりたつ中に不二の山

 寛政2年(1790年)10月12日、蝶夢は丹後天の橋立の一声塚で百年忌を営む。

   此日は、丹後の天の橋立の一声塚に、
   百年忌の営みあるにつらなりけるか、
   遙に粟津の会上をおもふて

シク(※「雨」+「衆」)るゝや爰も波よする松のもと
   蝶夢


寛政3年(1791年)3月、蝶夢は四国に渡る。

寛政3年(1791年)、梅人 『続深川集』 刊。蝶夢序。

寛政3年(1791年)、粟津文庫創設。

寛政3年(1791年)6月17日、青蘿没。

   青蘿か中陰に

かそふるもはかなき秋の日數かな


寛政4年(1792年)、 『芭蕉翁絵詞伝』 完成。

寛政6年(1794年)、 『水薦苅』 (柳荘編)刊。蝶夢序。

寛政6年(1794年)、五升庵の号を瓦全に譲る。

寛政7年(1796年)12月24日、64歳で没。

阿弥陀寺に蝶夢の墓がある。

 寛政8年(1796年)1月24日、重厚は 龍ヶ丘 に蝶夢の供養碑を建立。

「蝶夢法師」


 寛政10年(1798年)、『蝶夢和尚文集』(瓦全編)刊。菊男跋。

 文化11年(1814年)11月、五升菴瓦全は阿弥陀寺に蝶夢幻阿の句碑を建立。


我寺の鐘とおもはず夕霞

 明治28年(1895年)12月、蝶夢百回忌で無名庵十四世魯人は義仲寺に蝶夢の句碑を建立。


初雪や日枝より南さり気なし

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