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五升庵蝶夢
『東遊紀行』
安永9年(1780年)3月6日、蝶夢 は木曽路を経て江戸へ旅をする。4月5日、浅草に着き、15日に品川を立つ。30日、関宿を出て、「
ほとゝぎす聞やと尋ぬ人は誰
」の句で終わっている。
七日、空はる。同行は打出の浜出して舟にのれども、をのれと古静といふ男は
木曾寺
にまふで、
勢田のはし
わたりて、そのあたりの人に別をつぐ。野路の玉川にて、
焼し萩の根を見てありく川辺哉
草津
より北へ横をれて鏡山をすぎ、愛知川の駅にやどり、芦水・師由の面々にあひて、蝸牛庵に鶏うたふまで語る。
山中村に、九条雑仕
常盤女が墓
あるを案内す。不破の関は杉一むらある所なり。下に流るゝ関の藤川にわたせし橋の落たるに、「
荒にし後はたゞ秋の風
」とありける古歌を思ひあはせらる。
春やむかし橋さへ朽て木瓜すみれ
諷ひものに作りし鶏籠山は、上なる山をいふとぞ。
垂井の宿
に櫟原
(いちはら)
氏をたづぬ。その家にある聖堂を拝するに、かゝる駅の中に孔孟の道を伝へて、馬おふわらべ駕荷ふ男までに五常の事など教さとすぞ、有がたき心ばへなめり。
垂井の水
は玉泉寺といふ前にあり。涌出る水の玉のごとく、清冷いふべからず。
青野が原に分入て、熊坂と云し盗人の大将軍の物見の松をみる。此野はいと広くて人気うとき所也。青墓の宿に大夫進
朝長の塚
あり。誠に、東北の方のやまに有よし。道の左右に、梨の木を藤のごとくに棚を構へて作る。余所の国には目なれず。
赤坂の駅
の竹中氏が許に宿る。蝶伍・木固の二老人来りて、夜一夜かたる。
十日、日なを照りぬ。美影寺の宿に人多くむらがりて、老たるもわかきも念珠もちて物待顔なるを、「いかなる事のありて」と尋るに、「信濃ゝ国より阿弥陀ぼとけの登らせ給ふを拝ん」と也。やがてをのれらも其国にまふで行拝むべきなれど、かく道に参りあひ奉りしぞ、尊ふとき。
同行の野田なる男の尋べき所あれば、うちつれて糸貫河わたりて、北方といふ里につきて其家をとふに、八十の翁なるがよろ[ぼ]ひ出て、うちしはぶきて語る。堅固のふる人也けり。星野といふ所をも尋行て、野を横さまに長等河をわたり、岐阜の町をすぎ加納の城下に出れば、別れたる同行の宿りたる家をたづねて入る。
十一日、空きのふにまさる。馬にまたがりて各務野を行に、道の脇に小松多き中に、牛をかくす計の桜の樹の「けふ来ずは翌は雪と降なまし」の盛なるに、
人足も駕をろしけり花のかげ
鵜沼
を過、太田の渡りをこゆ。御嶽にとまる。此宿は蔵王権現を祭れる寺あれば、駅の名によぶ。
十二日、空くま無し。
細久手
・
大久手
の間の山道を上り下る、十三峠とかいふ。
西行坂
にその上人の塔あり。国々所々に西行庵・西行水など申所の多く残れる風雅の余光、申も今更なるべし。いにしへ唐土に蘇東坡の経過せし所を、後の人「来蘇」と名付てその来りし事をみめある事にせしためしならし。大井の駅より日くれかゝりて、夜に入りて中津河につく。
十三日、暁ちかく雨の降出けるに、木曾の御坂こゆるより空ひきかへて晴わたる。
薗原
は三里ばかり山深き所といふに、帚木といふものありける事かたり出て、
山桜有とは見えで道遠し
十四日、空曇りて駒が嶽も見えず、風こしの嶺は萩原の駅の右にあたりてみゆ。
奥は雪残るか下す風寒し
臨川寺
の庭に寐覚の床を案内し見するに、雨の降いでゝわびし。なべて此木曾の道は、岨陰の人の足たつべき便なき所に、山より谷の上に木をわたし柴を敷て渡るかまへなり。「青天に上るよりもかたし」と書し蜀の棧道になぞらへて、すさまじき限りに言伝へたる中も、此あたりは棧を長く渡したる所なれば、
棧
とのみは此あたりをさしていふ。おのれわかき頃より旅を好みて、年ごとの春秋にはかならず旅に遊ぶに、年すでに五十にちかく、四十余年の世の中の行路難をおもひかへせば、ひとりおかしくひとり悲し。
三度まで棧こえぬ我よはひ
棧や今も弥生の雪をふむ
古静
寝覚の床
雨なをやまねば福島に宿り、巴笑老人をとふに、親も子も出来りてかたる。其夜は、本陣の五左衛門といふ者の家にまねかれて、夜更る迄語る。
此
洗馬
といふ地名を、木曾義仲の馬洗ひしより名とすと。かゝるよしなし事、諸国に多く聞ゆ。『東鑑』に「信濃の国洗馬の庄、蓮華王院の御領」とあれば、そのかみよりの名なること、いちじるし。桔梗が原を馬にのりて行に、道の傍に首塚といふもの六十三あり。其頃のみだれ、思ひやるも恐ろし。
富士の山見んとて塩尻峠に登るに、思ひし山の影、夕日にうつろひて残なく見ゆ。同行の人々は年頃扇に書しよりはしらねば、皆手打てよろこぶ。諏訪の湖は真下に舟のうかべる。
高島の城
の洲さきにさし出たる、またなき詠なり。ことしは寒気いと強くて、此月の始めまで、氷の渡りありしとぞ。もと来し塩尻の駅に帰りて宿る。
高島城
十七日、きのふにすぐれて天ほがらか成り。桔梗が原の広きを横ぎりて、松本の町に入り、雨艸が家を尋るに、酒求め出しかはらけあまたゝびにめぐらすに、山路といふ男の酔過て旅ともおもはず、かの家より人して送り来りて、筑摩の湯に下り居てゆあみ、日比の疲れをはらすに、昼のあるじ、別れがたく思ひ酒肴持せ来りて、夜と共酌かはす。「下戸ならぬこそ」とおもはる。
十八日、岡田より道に出る比、少し曇りしも、頓て空はれて立坂をこゆ。青柳の駅に、ちかき年宿りし家も火の災にあひて、焼原と見なしぬ。けふはさかしき坂多くこへて苦しとて、早々
麻績の宿
に泊る。
十九日、けふは月の名所見るべきに、「空いかゞ」とねんじたりしに、いとよく晴ぬ。猿馬場 より更科山に分登る。
姨石
の上に登りつ。地蔵堂に下り居つ眺望するに、こゝかしこの尾上・谷陰に花の咲ほころび、雉子・鶯のもろ声なる、月すみ渡る秋の夜も思ひかけず。
よしや今姨すつるとも春の山
四十八枚の田どもも里人出て鋤かへす時なれば、都がたの野山のけしきにかよひておもひ出ぬ。
丹波島
より雨ふりいで風さへ吹て、犀川の渡りすさまじく渡りかねたり。馬手の方の山ぎは二三里が間、桃・桜の盛りにて、雪をつかねたるごとく思ひもうけぬ詠也。
善光寺
の別当にしれるよし有に、宿房薬王院といふをた
(と)
ふ。
廿日、空よけれど、「日比のやすみよ」と逗留す。戒壇めぐりすとて、同行を伴ひて如来のおはする壇の下を右遶
(ウネウ)
す。もとよりめざすもしらぬもいと暗き所にて、先へ行人の念仏する声をたよりにたどるに、世の中のあらゆる見る事聞ことの心をみだす事あらず、もはら心を一ッにして仏たのみ奉る声の、男女と声はかわれども、その人は見ず、聞およぶ六道の辻といふ処に死してさまよひ行と聞し、身にしみて覚ふ。廿年計のむかし、此処にて、
かの道もかうかと悲し朧月
と口ずさみしも今の様に思ひ出て、境内拝みめぐりて、後の山の刈萱道心の
往生院
にちなみある塚本道有といふくすし来りて語る。
廿一日、つゞきて日よし。明ぬより宿房の僧の案内に、御堂の内陣に入り、ちかく居よりて朝御帳の法会拝み奉るに、光明我人の頭を照らして有がたき。そも此御前に、こたびにて三度迄詣来りたる事、不可思議の因縁なる。今は此世にて詣ん事もあらじとおもへば、何となふ泪をさへがたし。外陣のかたは田舎人ども多く立こみて、肩をならべ膝をくみて所せく、おどろおどろしきまで念仏す。
曙や雉子も念仏に声をそへ
寺を出るより、雨風いやふりにいやふきにしてあゆみ兼たるに、筑摩河のほとりにて、同行の人ののりたる馬の泥になづみて膝打ければ、その人落て膝の口をいためぬるに、まだ昼の時ならねど矢代の駅にとゞまる。けふは都の方は御影供にて賑しからんものをと、人々いひ出しこひしがる。
廿二日、空名残なふ晴。朝まだきに宿を出るに、筑摩河をへだて更科山に月の白く残りたる、「かゝる折ならでは」と行もやらず、
姨すてやとり残れて月かすむ
またこなたの方を見て、思ひつゞける。
片はれや有明山に霞むかげ
此道の上は
川中島の陣
の時、越後がたの陣所にせし西条山なり。
笄
(かうがい)
の渡し
といふは、其比村上と申大将の軍やぶれたるに、其女房の落行が、こゝの渡し守にとらすべき料足のなかりければ、頭にさしたる玉の笄を手づからぬきてあたへしよりいふとなり。坂木は村上が城跡、鼠宿は元亨帝の皇子の配所なり。
上田
の城下を通るとて、
麦二
がもとを尋て、しばしの間に昔今を語りあふ。
海野
のあたり春風砂をふき上て、行ともなくあゆむとも覚へず、石高くてありきわづらふ。
小諸の城
は穴城といふものにて、道よりは遙にひきく地下りて、世にまれなる構なり。日暮て此所ににやどる。
廿三日、朝寒し。空、けさも昨日に同じ。浅間山けぢかくながむるに、煙のなゝめなる、
山の端やけぶりの中に啼ひばり
麓は数里が間、不毛の地にて、焼たる石ども原中につめり。
焼落し石の下にも春の草
沓懸・
追分
の間に、遠近の社、をちこちの里と申有。『伊勢物語』に「遠近人の見やは」とよめるより、好事のものゝもうけたるなるべし。はかなき筆のすさみを聞もわきまへず、神をいわひなどする、うたてしや。碓日峠は信濃・上野の境なり。しなのゝ方は地高くて上るはしばしなるに、上野の国の方へ下るは、さかしさ車をころばすべし。日本武尊の
この嶺
より弟橘姫をしたひて「吾嬬者那
(耶)
」と宣し心を、
花ぐもり京なつかしと我はいはん
碓氷峠
坂本
のうま屋に宿らんとするに、西の国の守多くとまりて、家々人みちてやどるべき家もあらねど、さればとてさきの駅までは道遠し、やうやう小き家に入りてやすむに、遊びどもよびて同行の男ども酒たうべけるよしなれど、例のいぎたなくてしらず。
廿四日、空かわらずよし。
横河の関
をすぐ。関の戸ちかき所に、けふとき刑にあひたる者あり。往来のかたはらにかけて、人に見するなり。是は、此関の戸は女の通る事をゆるさぬ法なるを、しのびて女をつれて通りし男なりとぞ。身体髪膚をそこなふ事を不孝と申に、いましむるなるに、かく国の掟までをかしたる、その身さへかく浅間敷ありさまなる、六塵の楽欲の中もわきて罪ふかきまどひなるか。川をわたり里をこへて、妙義山に詣ぬ。むかし見しにもまさりて、宮居のきらきらしき、目を驚す。此山は恐ろしきまで験ある御神にて、関東の国人あがめ奉る御社なり。
高崎
の町屋に宿る。
廿五日、朝雨ふる。生方氏が家をたづぬるに、やうやう起出し程なるに、立ながらあひてわかる。うらめしげにいふも、ねたし。
倉加野
より左に日光へ行道あり。
玉村
より雨晴れて、
五料の関
にいたる。関守にしるしの物出して通る。関の前に利根河流る。此河は、赤城山を出て沼田・厩橋の城どもを経て、大河の一ッにて、「坂東太郎」と川をあざ名す。伊香保の山やいか月の沼も近し。
道の右のかたに、世良田の
長楽寺
あり。新田の庄にならびたり。鎌倉のすゑに、世良田・新田の庄は富る者多しとて課役をかけし事の、『太平記』に載し所なり。徳河村は今の 将軍家の御先祖の地にて、一村の年貢を許されて、その由縁の人住居し給ふとかや。岩まつ村には、まだ岩松殿といふ人あり。みな新田の氏族にておはすとぞ。今宵の宿は
木崎
といふ所にて、田舎道のならひ、よろづ鄙びて旅心そひぬ。
廿六日、空の色霧たちこめて覚束なし。太田といふ新田の庄なり。大炊助義重より義貞卿まだ居住し給ふ地なり。菩提寺を大光院とて、庄園あまた寄られて目出度御寺なり。此あたりは、鳥山・脇屋・篠塚・江田・由良・大館・堀口等の村里の名あり。みな一族郎等の住し在所なめり。足利は左の方にあり。
足利学校
など旧跡多けれど、去
ル
古への事わきまふべき同行にもあらねば、行ず。天明は釜に名ある所也。犬臥までもことごとく佐野ゝ庄なり。富田の本陣に宿る。
廿七日、朝より雨風のあはたゞしければ、橡木より蓑まとひ行。
室の八島
もちかけれど、「雨の道物うし」と同行のかこたんもうたてく、わきに見やりて、
春雨や森の草木のけぶりたつ
ふりみふらずみにて、
金崎
・合戦場をすぐ。
鹿沼の宿
より雨また篠をつく。道の左右に杉の並木あり。右衛門太夫正綱と申せし人の植給ひしとぞ。「甘棠翦
(キルコト)
なかれ」の徳沢なるか。
文挟
の駅にやどるに、雨、夜すがらふる。
廿八日、雨なをやまず。板橋をわたり、今市の駅なる斎藤氏を尋るに、三とせ昔の人と成て、其子とてきびはなる、それの母の親もいざり出てねも比にもてなす。また当社に仕ふる高野ゝ何某も年比の友なれば、「夫をもとぶらはん」と云ふに、是も今はなき人に成れりと聞て、旅の心よはくてなかれぬ。
日光山
は仏岩といふ谷の常久房にやどる。雨やまねば社へ参るは翌こそ、と炉のもとにまどゐして、ぬれたる衣をあぶる。
廿九日、雨降しきり、神さへ鳴りて、山寺の人気すくなき、心ぼそし。午の貝すぐるより、雨のやみたるひまに 御宮へ参る。ちかきとし、将軍家の御社参とて、世に残る人なゆゝしく見さはぎける跡にて、わきて光りをそへ、めさめたる心地ぞする。生る仏の御国とは、爰を置ていづくをやいはん。堂舎拝みまはりて、
花鳥と数へつくして春くれぬ
陽明門
瀧尾の社
、素麺の瀧の所々見めぐるに、けふの三月尽の日をも旅行心せわしく、物にまぎれて日の移り行をもしらざりしに、あはたゞしく驚れて山中の見るまゝを、
春雨の名ごりやつたふ杉檜
四月朔日、雲行立かはりて晴ぬるに、宿房を出たつ。大沢といふ宿よりあなたは、杉の並木見へず。衣かへる日なれば、
山を出て綿ぬく気には成にけり
古静なる男の足疼みて物うがれば、宇都宮に宿る。爰はみちのくの海道にて往来多し。
二日、空晴れわたりて、清和の天とやいふ。兼て
鹿島
の方へ行んとかたらひしも、同行のなやめるに、その事やみぬ。黒髪山はうしろに、雪まだ白く、筑波山は前にみへたり。
つくばねや麦の穂ずへに黒きもの
小金井の宿の左、半計に薬師寺あり。昔は筑前観世音寺・南都東大寺と当寺、戒壇を許れし事ありしとぞ。道鏡法師も別当職に左遷せられしと聞ぬ。詣まほしけれど、人々皆旅にうんじて、「早く江戸に出なば」など、おのがどちしりうごちければ、行ず。
小山
の駅は、小山判官と云し人の住し所とぞ。家多く立ならびぬ。こなたもかなたもかぎりしれぬ野らなり。下毛野と聞へしもむべ也。
間々田
に日高く宿るに、旅の徒然なぐさめんとて遊びをむかへてうたはせけるに、その声のだみたる、糸の調べも聞なれぬに、遠くも来りにけりと思ふ。
三日、空同じ。「枕香の許我のわたり」と聞へしは、古河の城ちかき
栗橋の渡り
なめり。川は利根河にて、前の渡しよりは川はゞはるかに広く、盞をうかめし流れも楚に入ては船をもて渡るためし也。関所は川のへたにありて、いかめしきかまへをなす。夫よりは堤をなゝめに、なが竹むら立て、行々子の声かしまし。
ねぶたさや柳絮
(ハク)
ちる長堤
堤のかげに、あやしの家三ツ二ツづゝならびたり。或家の内に一人の翁ありてさゝやかなる笛を作るを、立寄て「いかなる音をやなす」と尋るに、やがてすげみたる口してふくに、あたかも初春の明わたる、窓の竹、門の梅の枝にほのめけるはつ音のごとし。「されば鶯笛とはいふ也」と。そのあたひをとふに、「銭一文をもてかゆる」とことふ。世わたる業の様々に、鳥を網に竿にさして殺生の業をなしむしんなること多[か]るに、かく風流なる工をなして朝夕をおくれるは、いかなるかしこき人の世をのがれてかくれすむならん、かの
西行上人
書給ふける『撰集抄』とかいふ中に有べき人ならんよ、と物なつかし。
下総の国をはなれて、武蔵の境に入り、杉戸の宿につく。けふも日高けれど、「足のうらいたみてうごかれず」とわぶる人あればとまる。
四日、空けふもかわらず。四方見わたさるに、たゞ水田のみ目もはるばるなり。げにも武蔵野ゝ、行ともはてしなき詠なり。
粕壁
・越谷を過て、江戸に入らん[と]するに、
千住の駅
の家々に、君どもなまめかしく居ながれて糸ひきうたふに、同行のわから人、心うかれて「道行べき心もなし」といふに、をのれのみ「いぶせし」と行んも、例のむくつけ法師よ、と思ひはゞからんにや、と長が許にたちよりて笠をぬぐに、「こゝろとむな」といふべきあるじぶりにもあらで、また申のかしらより宿りて寐にけり。
五日、空曇りながら降もやらず。浅草の門を入て、石町わたりの、しれりける山崎といふもとに宿る。こは唐・大和の書をひさぐすぎわひなれば、家のくまぐませきまで書どもつみかさねたり。日ごろとゞまりて、静に見まほし。此あたりは府中第一の繁花の市町にて、市女・商人の行かひ、馬・車のけぶりたちて、ものさわがしき事いふべからず。されどもこよひは、旅の心のどめて前後もしらずふしぬ。
六日、雨つよくふりて、見ありくべきやうなければ、「歌舞妓狂言見せん」と宿のあるじ催して、「羽左衛門」といふ芝居を見る。
七日、雨はあがりぬれど、道あし。ちかきわたりの、
烏明
・吐月が庵を尋ねて、御城の四方見めぐり、四ツ谷の萱堂といふ人の許へまかる。其家の楼に上りて語るに、あたりの人多く来りて一座の会あり。ねぶたかりつるおりなれば、其夜は其家に宿る。
八日、けふもまた照りぬ。李十・素門の二人、道の案内し、平河天満宮より
増上寺
に参る。灌仏の日なれば、常は人の詣る事もあらぬ所まで拝まするに、老若群集をなす。青松寺・愛宕社えも登り、はては武蔵・下総の境なる両国橋わたり、深河の
雪中庵
、また泰里の隠家をもたづぬ。其家にとまりてこよなく語るとて、「ことしは杜宇の遅くていまだ聞ず」といふに、
江戸でさへまづ一声やほとゝぎす
かゝるよしなし事いひて、其夜は明ぬ。
九日、空曇りがちなり。
長慶寺
の芭蕉翁の塚に参る。此塚は元禄のころ
杉風
が建たる碑にて、石の面、苔にふりたり。雨のふり出たるに、吹矢町の芝居を見物す。萱堂のぬしがあるじせし也。都にて見ける歌舞妓どもあまたありて、興を催す。日くれて、旅宿に帰る。同行の人々はいづくにかうかれけん、あらず。
十日、朝の雨しとゞに降る。西村といふ書肆の許に行て、書を見る。巳の刻すぐるより雨晴ければ、本庄の方に行て、門瑟が庵をとひて、また雪中庵にとひよりけるに、雨の降でければ、あるじの老人とさしむかひて、
わか葉うつ雨やむかしの庵の音
是は、此庵は芭蕉庵の古きをうつしたるなればなり。これに句をつぎて、主筆の人と四人の一座となる。
十一日、雲なく成てはれらかなり。あるじを伴ひて河上庵にいたる。此家のかまへ、木草庭もせにしげり、池水すゞしくたゝへ筧の音たらたらに、此ごろの市中のかまびすしきを忘れて、
しづかさは京かとぞおもふ夏木立
此句にて一会あり。鶏口・登舟・
蓼太
・
予
・古友、連衆なり。当座に、
小ぐらきは東叡山かほとゝぎす
十二日、空また曇る。あるじ泰里案内にて、家の前より小舟をさしかへて、永代大橋・両国の橋々を漕とおりて、角田川に遊ぶ。舟さす男の一人あるが、この河水にたゞよひありきながらも無下のしれものにて、「
三囲の社
、関屋の里は」ととふとも、わきまふべきならず。「
木母寺
の方へは、あの川島へや舟つかふまつらんや」と覚束なげにいふも、たどたどし。
葉柳をあてに棹さす小舟かな
浅草寺
は、参詣の貴賤とろとろと水の流るゝごとし。此国に昔よりおはします観世音にて、霊験の事は、かけても申さじ、この年月の火にも焼で、御堂物ふりにたり。「火不能焼」のちかひなるか。大我和尚の愛蓮庵を尋ね、上野の
東叡山
を拝みめぐり、此山下にかくれすみける秋瓜が庵をとひて、昌平橋をわたり、旅宿に帰る。
十三日、空の景色心もとなけれど、江戸橋より舟に乗て深河にいたり、しれる人々に別をいふ。同じ所に、遠江守と申御館の中に
芭蕉庵の跡
ありときゝ、門もりの翁に物とらせて言入るゝに、御館をあづかる武士も、さすがに情しらぬにはあらで立出てかたる。「此所中、むかしは杉風と言しものゝ別業なりし。其比芭蕉翁の住給ひて、人もかく呼びならはせしとぞ。あが国の御館となれゝど、仕ふる殿の昔忘れさせ給はで、<かの蛙飛込むとかありし池水も其世のまゝに、汀の草をもかなぐらでおくべし>と仰事ありて、其御いましめをまもりて、あらぬさまなれど、さる事しとふ輩ならんには」と案内せられけるに、かたりしにたがわず、水草しげりて、そこともしれぬうもれ水なりけり。貞享・元禄のありし世のさま思ひいでゝ、古池の水のこゝろいかんとぞ、
水くらし刈らぬ菖蒲の五六尺
村雨やうき草の花のこぼす音
古静
『本所深川絵図』
八幡宮の茶店にて、旅宿の主じ見送りの酒をくむ。けふがる男の出て、声うちゆがみうたふ。また舟に乗て石河島・
つくだ島
を過て、
築地の本願寺
に参るに、雨横に降しきて、いたふぬれて旅宿に帰る。
十四日、そらうち曇りぬ。
柳几
が隠居へ文をくるに、とみにはしり来りて、「けふ迄もしらさゞりける事のうらめし」といふに、うちつれて小柳町といふ所の別屋に行。
神田の社
・
湯島の社
・
忍ばずの池
の弁財天など拝みて池水にのぞむに、水すゞしくたゝへ蓮葉うかみていと広し。柳原といふちまたは、川岸に柳枝をつらねて、其陰に小袖・帷子を売る商人軒を並ぶ。
衣がへによりそふ人や柳かげ
十五日、空おもふことなげに晴たれば、一きはうき立て旅宿を出たつに、しばらくのやどりも別れの物うし。宿のあるじ見送りて、高縄の
泉岳寺
を案内するに、古墳の壘々たるあはれに、世のすゑとも覚へぬ節義の人の名どもよむに、泪ぞ先だちける。
品川
のうまやにて、旅宿のあるじわかれの酒くむ。六郷の河は
矢口の渡り
なり。此川上に義興の霊を祭りて、新田の社と申とぞ。此河はむさしの玉川にて、調布さらす名所にて、ふるく人のしりし所なり。上野の国より此辺り迄、賤の家の棟に土を置て射干を植たるに、そのかみ何がしの君の、筑地の上に撫子をうへさせて詠給し風流の事ならねど、
しやが咲や崩れし棟に花みだる
神奈河の台は、海を目下に景よき所也。そこをすぎて
程が谷
に宿る。
十六日、空みどりの色をますほどに、富士の山はれらかに見ゆ。
戸塚
より鎌倉の山の内へ入る。まづ円覚寺より小袋坂を登り、建長寺に参る。世の諺に、「建長寺の庭を鳥箒もて掃しごとく」といゝ伝ふも、大檀那は時頼朝臣にて、隆蘭渓の住持し給ひける時のになふときめきしをいふならん。今の世はよのつね人の詣来る影もあらで、誠に仏法のとこしなへにあるものをと、信をこる。
かん[こ]鳥の声さへやみぬ板の音
鶴岡の八幡宮
を拝し、段かづらより見めぐらすに、由井の浜辺の一の鳥居までなゝめに、谷々の景色のこりなし。懐旧の心を、
麦の穂や谷七郷の見へかくれ
雪の下の茶店にいこひて、日蓮上人の首題となへ初し比企谷の妙本寺、記主禅師の念仏すゝめられし名越の
光明寺
、
長谷の観音
、
大仏
等も一覧し、星月夜の井に旅痩の影をうつし、極楽寺の切通しをこへ、七里が浜にいでゝ小余綾
(コヨロギ)
の急ぎあるけど、砂道のはてしなく腰越に宿るに、伊豆の大島は南に、駿河の富士は西の海中に、夕景かぎりあらず。
十七日、海の面静に、風あらねば
江の島
へわたる。上下の堂塔、異国の碑文など見て、渚に下りて、龍穴に入りみる。天女のあらはれ給ひし巌屋といふ、其奥いと深く、松どもともし、打ふりて行。此磯より海をへだてて、富士の山麓のながれまでかくれずみゆ。今は年頃の願ひも心やれるおもひなして、下りゐて詠。
固瀬
(カタセ)
川・唐が原を過て、
藤沢寺
に参る。馬入河をこして、大磯の
虎の石
を見る。
鴫立沢の庵
によるに、いほぬしは、他国に行てあはず。
酒匂川
を人の肩にまたがりて渡る。夕つげ行風に富士の山雲よくはれて、西日の影に雪のいろの黒くうつりて見へたる、めづらし。今宵は
小田原
に宿るに、夜一夜波の音ひゞきて、市中ながらの磯枕なり。
十八日、すこし曇る。坂を登り、湯本の
早雲寺
に参る。北条五代の廟あり。それにならびて、
宗祇法師
の墓あり。竹木うちかこみて物ふりにたり。
道もあらずたゞ咲苔の匂かな
山陰にわく温泉を「芦の湯」といふ。箱根権現の御社は、山によりたる湖水の汀にていと清く、神の跡たれ給ふべく覚ゆる所也。曾我の五郎が童形にて居たりし僧房もあり。
関所
を過て湖水を見わたすに、曇りければけふも
(は)
富士の影もうつらず。くなうして三島の宿に下りてやどる。
三島の明神
にまふで、朝日氏が許へしらするに、取る物もとりあへず旅宿に来りて、年比のたへだへしさをわぶ。
十九日、天むらむらと曇りて、原・よし原の駅をすぐるにも、富士のかたは雲おほひかくして根もとのみ、おのれも人も本意うしなひしおもひに過すなり。吉原にもと住し
乙児
が門人に三浦氏のくすし、古きよしみなれば尋るに、かれも頭白く成て六十の翁とは見へぬ。をのれも「見わするばかり也」とかたみに老をかたる。「けふなん、富士をながめざる事口惜し」とかこつに、同行の心なきも有るも同じ心にいへば、「もし雨雲のはれなば、山の見へやせん」と空だのめに蒲原のうま屋に宿る。
廿日、いさゝか雨ふり出ぬ。
由井
をすぎて薩タ
(※「土」+「垂」)
峠にかゝるに、雨雲墨を流せしやうに、「富士の方そこともしれず、足高山のかたちは雨の中の朧なり。田子の浦にも塩やくけぶりもたゝず、さしもにねんじたる詠はけふにこそあなるに、「いかなれば去ル神のにくみ給ひて、かばかりの景をかくせしや」とうちうめくのみ。
清見寺
に入りて、
真砂地や山は若葉に清見潟
是より身延山の方へ分入りて、甲斐の国より富士の景を見んとあらましなりしも、雨の空のおそろしく、山深く入べき心もあらず。顔見合して、誰「行ん」ともいはねば、やみぬ。遺恨すくなからず。雨次第に盆をうつせば、府中の町にやどりて、月巣が許をとふ。
廿一日、日なをあし。されどけふは、名にし大井河こゆる道のりなれば、雨をつきていそぐ。安倍川のあたり、木枯の森のかなたを見やるに、まだしのゝめのたしかにも見へざる比なり。
鞠子の宿
より、古静とおのれと柴屋寺に立よる。海道よりは引入りたる山ふところに、心細く住なしたる草庵なり。わざとならぬ庭の草木、雨の中に一きはしみじみとみゆ。前に立し山のするどく天をさゝへたるごとくなれば、「天柱峯」といひ、後の山より月のさし登れは、「吐月峯」とは名付しなるべし。
宗長
、此所にかくれし事は、みづから書し『宇都の山の記』にあれば、人もしれる所也。
什物の文台かせよわか葉かげ
一ツ二ツ塚のかざしや藪つばき
古静
宇都の山こゆるに、むかし蔦の細道などおもしろく聞えしは、下の谷道とぞ。今は上の尾をこゆるに、此ごろ何某の殿の入部ありとて、草はらひ砂敷わたしたり。
御通りに蔦のしげりもなかりけり
青葉わか葉うつゝにこへぬ雨の中
岡部の里の名はむなしからず、左右に岡ある所也。午の下りに、
島田の宿
にはしり入て大井川の岸に望に、「たゞ今ぞ、わたり瀬とまりぬ」とのゝしりて行たる人もむなしく帰れば、せんすべあらで駅にやどる。いつまで宿るべしともしれねば、人々、たゞ日の経ぬる数をけふ幾日、廿日、丗日とかぞふれば、およびもそこなはれぬべし。千布といふ老人をたづねて、それが閑居にいざなはれて遊ぶ。
廿二日、朝の空ははれぬといへども、川わたるべきとも覚へず。起もあがらず。「日比の眠たさをわする計に寐ん」といふに、「川の口あきぬ」と里人どよめば、おもひかけず、」あはてふためきて川原にいづ。かの千布が方より人もてをくらす。其男はしりありきて、川ごしの者をかたらひ、をのをの二人ヅゝ台にのせて、六人してかきもて行。わたり瀬は六すぢにながれて川波白く、わたる人の頭、鳥などの浮たるやうに見ゆるに、台の上にもさと水のみなぎるに、わなゝきわなゝき目くるめくをねんじて手取かはして、台に居る心地もせず。金谷の岸につきてふりかへり見れば、富士山いとよく晴て、三保の松原・田子の浦はまで見わたさる。「昨日ならましかば」とうらめし。菊川の宿は、承久のみだれに、宗行卿の「東海道の菊川に命終る」と書付給ひし所なり。
小夜の中山
をすぐる頃、杜宇の百千がへり啼けるに、
爰で聞も命なりけりほとゝぎす
「横をりふせる小夜の中山」と詠しも、布引山といふよりはじめ、なべて横をれし山のみあり。古人の詞いたづらならず。例の居ながら名所をしると、思ひあがりたる歌人ぞ心もとなき。
掛川の城
より秋葉山の方へ行。野こへ山こへ道にて、此ごろの海道にはかはりゐ中びたるに、旅の哀れもまさりて興あり。森といふに宿る。
掛川城
廿四日、暁ちかふ雨そぼち出ぬ。また川をこして山にかゝる。登り下り百町とかいふ岨道さかしく、木立くらし。此山にも光明山権現と申神おはします。からくて山はれて、四方の夏野みどりにめもあや也。犀が崖・味方が原の古戦場を横に見て、黄昏の比
浜松の城下
につく。しれる武士の許へ告るに、使をこせられて、いたく草臥ければ、「翌こそ行め」とふしぬ。
廿五日、空清し。中畝が家に行て、妻子や永田氏にもあふ。舞坂の長が許より人送り来りて、舟にのす。この海より富士の山ほのかにみゆると聞しを問ふに、楫取の、「けふの空にはいかで」とあいなくいふもねたし。おもふ方の風そひて、時の間に
荒井の関
につく。此ほとり浜名橋の跡にて、「はし本」とよぶ。
もかり舟はま名の橋の跡かたれ
海を見こしに磯馴松むれ立て、風景たぐひあらず。白菅・
二川
をすぎて、
吉田
城下にしる人多けれど、家々もことごとく焼ほろびていづく尋んもしれず。国府のあたりにも日比の友あれど、日は暮かゝる。馬に乗たれば心にまかせず、御油 にやどる。
廿六日、朝日よし。
赤坂
にいたりて、大田氏が家をとふ。こゝは浮流法師が古郷なり。法師とくより爰に有て、をのれをむかふ。共に旅の日数をかたりあふ。あるじは、丹青に妙に風流の才に富る人也けり。法師も共にうちつれて、ともなふ。道心の坊一人あり、是は尾張の国迄行人也。けふこそ日比の旅にも似ず、法師三人うちつれて、こゝろ静にかたりもて行。
宮地山は、赤坂のうしろの山をさす。古き記行に、「宮地山中に宿る」と載し所ならん。 持統天皇の頓宮の跡などありとぞ。二村山は法蔵寺の山をいふ。
藤河
の長は法師がはらから也。けふはよりて対面するに、酒食の饗応ありて時すぐ。
岡崎の城
・矢矧の橋のほとりまでは、去年の秋、水あふれ出て、城の門をはじめ多くの在家ながれたゞよひぬと。海道も淵とかわりたる所多し。跡の吉田は火にほろび、此辺りは水にうせぬ。此世の四大災も眼前に恐ろし。
八橋の寺
へ行て見るに、まだ残りたる花の有けるに、古き跡のいたづらならぬを、
二番咲も色浅からずかきつばた。
『伊勢物語』の詞に、「沢の辺に下り居て、かれ飯くひけり」と書しこゝろを句に作らんと、
めしの茶は寺でもろふや燕子花
池鯉鮒
に宿る。馬市ありてやかましきまぎれに、法師を見うしなふ。
岡崎城
廿七日、よき日和つゞけど暑し。
鳴海の駅
を行に、したしきものもあれども、とめまどはん事のむつかしければ訪ずしてすぐるに、名所問んたよりもあらず。こゝに里人の、年のほどさだすぎたる男のくはしくしれるにあいて、不審せし所々をさして教ゆ。「此うま屋を〈松風の里〉とは申せしと。〈夜寒呼続の里〉はさだかならず。星崎はさしつゞきたる村里にてあなれ」といふに、
星崎や昼もほのぐらき木下闇
笠寺
、観世音の笠めし給ふ故とぞ。
熱田の宮
に参る。同行の人々は名護屋・津島の方へ行ば、おのれのみ荷物もたせて七里の渡をこえんとするに、折ふし風むかふて舟道ゆゝしと、この駅にとゞまる。
廿八日、空曇れども風よしとて、朝とく舟に乗るに、はからずも、きのふ見まどひける法師も同じ舟に来りて、舟の中つれづれならず。左は尾張の知多よいふ郡、海の中へさし出たり。右は美濃の山々ならび立たり。昼の鼓の城に聞ゆる比、
桑名
につく。同行の人々も間なく来りて、朝気川わたる比ほひより雨ふりて、四日市 に宿る。
廿九日、雨やまねど、都ちかく成ぬればむごに急れて、飛がごとくに都へもがなといはましと、たゞ急ぎて出たつ。日永の里をすぐるに雨ふりに降たれば、「雨に日永団買れぬ」と口ずさみけるに、折ふし都の山伏のしれるが馬に乗て行に逢ぬるに物いふを、「篠懸を馬の前輪にくゝり付」と傍に居たる人の付たる興あり。
杖突坂
上るに、
夏草や泥によごれし杖[を]ふむ
古静
庄野・亀山のあたり、雨しめやかに野山見わたされて、
うなだるゝ麦の穂なみや雨雫
法師は、「この雨に谷河の水出なば、道のわづらひならん」と別れて、兜越にかゝる。人々は雨にあゆみかねて、関に宿る。例の君ども多き所なれば、うしろ髪ひかれてにや、しらず。
晦日、朝小雨す。鈴鹿山こゆるより、日の影ほのめく。松尾川の橋の上にて、郭公の音もおしまで笠の端ちかく啼けるを、立どまりて聞居るに、老たる僧の行ちがふとて、「ほとゝぎすや聞給ふ」といふてすぐる。心ありげなり。
ほとゝぎす聞やと尋ぬ人は誰
五升庵蝶夢
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