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私の旅日記2006年

鹿島神宮〜碑巡り〜
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長禅寺 からひたすら利根川沿いに県道11号取手東線を行く。

水郷大橋からはカーナビの指示に従って、鹿島神宮へ。


鹿島神宮 (HP)は常陸国 一之宮

大きな石の鳥居(二の鳥居)


あいにくの雨である。

   鹿島大神宮

常陸國鹿島郡鹿島郷、正殿武甕槌神(たけみかつちのみこと)、相殿神、右は經津主命、左は天兒屋根命を祭れり。 神代の昔より、この所に鎮座(しづまりまし)し大神にて、いともいともふるき事なり。風土記に、淡海大津朝(天智天皇なり)初遣使人神之宮爾以來、修理不絶云云としるせり。猶委しき事は鹿島志に詳かなれば略す。

萬葉集に 霰降鹿島の神を祈りつゝ皇御軍(すべらみくさ)に我はきにしを


万葉の歌碑 があった。


霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に我は来にしを

『万葉集』 (第20巻)
那賀郡(なかのこほり)の上丁(かみつよほろ)大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)

「霰ふり」は鹿島に懸かる枕詞。

朱塗りの楼門


寛永11年(1634年)、水戸初代藩主徳川頼房公奉納。

楼門の裏に芭蕉の句碑があった。


名月や鶴脛高き遠干潟

  『もとの水』『俳諧一葉集』『芭蕉翁句解参考』 に収録されているが、 存疑 の句とされる。

安政3年(1856年)10月、建立。鹿島神宮大宮司香樹山人暦外書。

下段に香樹山人暦外の句も刻まれているそうだ。

寄る波の光にたつや霜の鶴

  『諸国翁墳記』 に「常陸国鹿島三笠山碑圖 蕉翁句并四十五人句 彫刻 暦外書 下サ香取郡小見川 須田氏 飯田 東 氏」とある。

拝殿


元和5年(1619年)、二代将軍徳川秀忠公奉納。

元禄9年(1696年)、天野桃隣は鹿島神宮を訪れ、句を奉納している。

 ○奉納 額にて掃や三笠の華の塵


御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

奥宮(おくのみや)


慶長10年(1605年)、 徳川家康 公奉納。

 宝永6年(1709年)、 明式法師 は鹿島神宮に参詣している。

知人有てあないさせ、鹿島に參社す。太神宮は布都主(ふつぬし)の尊とかや。東夷征伐のため下り給ふ。高間はらはむかしの陣所なり。


経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は香取神宮の御祭神である。

 享保元年(1718年)8月16日、千梅林亜請は鹿島神宮に参詣している。

午の刻はかり鹿島 につく磯辺に御鳥井たつ是ヨリ舟をあかり御殿まては十余丁直に社参す御社は乾の方にむきて立せ給ふ或抄に南向としるされたるいといふかし塩たにさせは御まへのはた板まては海になり侍と書れたるも大キにたかひ侍る今の御殿は中々海に遠く森々タル老樹梢埋むて立つゝき海にのそめは夜狐輪の月を見おろす神の御こゝろの高く宮ゐし給ふもとうとし 御造栄も幾年経にけむ玉垣楼門あふれ朽宮殿もさすかにめてたきよりいや増有かたさも身に入て覚ゆ


 宝暦3年(1753年)、横田柳几は鹿島神宮を訪れている。

一日境内をめくる。此神は武甕槌尊にして春日明神と一躰分身にましますよし。されはこそ宮ゐの俊を三笠山といふ。


 明和元年(1764年)11月20日、内山逸峰は鹿島神宮で歌を奉納している。

 明る朝、鹿島太神宮へ奉る。

   いつとても神のこゝろに咲はなの香島かしこしよもの国まで

   かしこしないま安国と治まるもたけみかづちの神のいさをし


芭蕉の句碑


此松の実生せし代や神の秋

貞亨4年(1687年)8月、 芭蕉 が鹿島神宮の「神前」で詠んだ句。

「実生え」は実生(みしょう)のこと。種子から発芽し、生育した植物。

明和3年(1766年)4月に建てられたものらしい。

 安永7年(1778年)8月17日、横田柳几は再び鹿島神宮を訪れ、句を奉納している。

○十七日雨降出して東西を分たず宿の子をあなひにて御社 に詣す宮居神さび木立ものふりて忝なさに涙こほるゝの詠も身にしみて偈(ママ)仰の頭をぬかつきねぎことし侍りて

   神前奉納句

鹿の音にかはらぬ色の御山かな
   柳


 天明4年(1784年)8月、美濃口春鴻は鹿島神宮を訪れ、句を奉納している。

   鹿嶋奉納

神杉や身に冥加なる秋の声


柿麿と虎杖の句碑があった。


月花に和らぎし夜や常陸帯   柿麿

鶯や神楽拍子になれて鳴く   虎杖

安政2年(1856年)春、建立。

境内は雨で暗い。

柿麿は知らないが、虎杖は戸倉の俳人 宮本虎杖 のことだろうか。

そこで、鹿島神宮に問い合わせてみた。

 柿麿、虎杖は江戸時代末頃の俳人で、親子と言われているそうだ。

 虎杖は神宮近くの豪商で高安佐七という人で、鹿島神宮の御神前の石畳を奉納した。元は牛堀(現在は潮来市)の出身で、鹿島近辺の俳人であり、この周辺では有名であったようだ。

 句碑は虎杖と兄の2名で建てたようで、句は親子、建立は兄弟と言われていて、混同しがちということだ。

宮本虎杖のことではなかった。

須田柿麿は牛堀の人。本名源之丞。別号柿丸。

 安政4年(1858年)3月、須田柿麿の喜寿を記念して 芭蕉の句碑 が建立された。

要石(かなめいし)にも「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」の 芭蕉句碑 がある。

道がぬかるんでいるので、私は引き返す。


 文化14年(1817年)5月26日、小林一茶は鹿島神宮を訪れた。

   武井 鹿島詣

『七番日記』(文化14年5月)

 一茶は奥宮の前にある芭蕉の句碑を見ているはずだが、句碑には触れていない。

   鹿島

大なへ(ゐ)にびくともせぬや松の花

『八番日記』(文政4年9月)

 要石の下には大鯰(おおなまず)がいると言われていて、要石が地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえているから、鹿島地方では大きな地震がないと伝えられているそうだ。

 「松の花」は春の季語。新しい枝の頂部に2〜3個の雌花が、その下方に多くの雄花がついて花粉を散らす。

文政4年(1821年)は、一茶59歳。

一茶が再び鹿島神宮を訪れたというわけではない。

 安政5年(1858年)3月26日、赤松宗旦は鹿嶋大神宮へ参詣している。

廿六日曇ル
 健蔵を召連朝とく立て
 鹿嶋大神宮へ参詣。
 大船津の河岸より神宮迄
 十六丁、石橋を渡りて神領
 なり。夫より坂を登りて程なく
 鹿島の町なり。
  鳥居を入りて一丁斗
  鹿島大神宮本社

赤松宗旦 『銚子日記』

 大正12年(1923年)2月、 北原白秋香取 から潮来へ、潮来から鹿島へ。

香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたに榜ぎつつ

靄ごもり鹿島遊行ぞおもしろき蛙(かへる)啼く田の間あひを榜ぎつつ

『海阪』(浅春舟行)

 昭和6年(1931年)2月26日、 与謝野晶子筑波山 から鹿島神宮を参拝。

 昭和8年(1933年)10月1日、 高浜虚子 は武蔵野探勝会で鹿島神社を訪れた。

加藤洲の大百姓の夜長かな

      昭和八年十月一日 武蔵野探勝会。常陸鹿島神社行。


飯沼観音 へ。

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