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俳 人

三上千那
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堅田の 本福寺 十一世住職明式。別号葡萄坊、感応院。

僧千那者。江州堅田産也。居于本福寺 。釋名妙式上人。嘗任律師。號葡萄坊。中華蕉門之高弟也。

『風俗文選』 (許六編)

 貞享2年(1685年)、千那は『野ざらし紀行』の旅の途上で芭蕉に入門。

辛崎の松は花より朧にて
   芭蕉

山はさくらをしほる春雨
   千那


芭蕉が江戸に帰ってからの千那宛書簡がある。

貴墨辱拝見、御無事之由珍重奉存候。其元(そこもと)滞留之内得閑語候而、珍希覚申候。

一、愚句其元に而之句

  辛崎の松は花より朧にて

と御覚可下候。

   山路来て何やらゆかしすみれ草

其外五三句も有之候へ共、重而書付可申候。

千那宛書簡(貞亨2年5月12日)

 元禄3年(1689年)、芭蕉は本福寺の千那を訪ね、病に臥した。



病雁の夜寒に落ちて旅寝かな

 元禄5年(1692年)3月、本福寺第十世明賢寂。明式は十一世を継ぐ。

 宝永5年(1708年)3月28日、千那は堅田を発し、4月29日、江戸に着く。 田中千梅 の「千梅林」に逗留している。

ことし寶永の五とせの春、貫首の尊許を拜しかたじけなきをしるべとして、東の方におもひたつ。堅田の網の筌繩(うけなわ)も心もひく行衛ならむ。吉日をしえらばず、三月廿八日を定む。


 宝永6年(1709年)8月末、千那は別れ東国・越後・信州を巡る。

   武城より北越に趣くとて
      千梅に別るゝ

昼顔の百里みたるゝ別かな
   千那


 正徳2年(1712年)、感応院の院号を賜る。

享保8年(1723年)、死去。

 享保10年(1725年)9月、千那の三回忌集 『鎌倉海道』 (千梅編)刊。

 寛保3年(1743年)、芭蕉五十回忌に千梅は 「芭蕉塚」 造立。



「(千先生旅舎)之地」とある。

 寛保3年(1743年)、芭蕉五十回忌に十二世住職角上は「病雁」の短冊を埋めて「旅寝塚」を建立。



千 那 翁
芭 蕉 翁
角 上 翁

昭和57年(1982年)4月、千那顕彰会は千那の句碑を建立。



しぐれきや並びかねたるいさざぶね

(※「いさざ」=魚+少)

千那の句

けしちりてさゞらけもなき匂哉


名月や堅田の庄屋先に立


水鼻にまこと見せけりおとりこし


人を吐息をならはん冬籠


初雪や浪に伊吹の風はづれ


唇に墨つく児のすゝみかな


南天の鳥追いをして年くれぬ


それそれの朧の形リやむめ柳


唇に墨つく児のすゝみ哉


高燈籠昼はものうきはしら哉


高燈籠晝はものうき柱かな


いつ迄か雪にまぶれて鳴ちどり


けしちりてさゝらけのなき匂ひかな


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