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田中千梅

『鎌倉海道』


三上千那 の三回忌集。

享保9年(1724年)、湖中園佐角・ 千梅 亜靖序。

享保10年(1725年)9月、刊。

鎌倉海道 上

    深川の大橋 半かゝりける比

初雪や掛かゝりたる橋のうへ
  芭蕉翁



其陰に居てはつ雪の足高や
    風葉

戻る気のつかぬ間を雪見かな
   湖十

事は流にまかせ雪の原
   李洞



   堅田に遊ふ

名月や東近江も雁の声
   千梅

月の宮いつしか落て浮御堂
   角上

名月の玉や眉間にうき御堂
   千那



   東叡山にて

白光の帯たな引や花さかり
   千梅

   千梅林に尋まかりて

よし花の匂ひそしはし門の船
    清流

   同しく花見に人の子を愛して

折とても花の間の世忰かな
    其角

   弥生の半上総国の
   海辺に数日をおくる

鯨吹九十九里も花曇
   千那

   雲鈴法師行脚を送らる

すゝかけに山吹まけて立給へ
   千那

   武城より北越に趣くとて
      千梅に別るゝ

昼顔の百里みたるゝ別かな
   千那

昼顔の百里みたるゝ別かな
   千那

   清澄の虚空蔵おかまんと

安房船や寤覚を波の雪唸(ウナリ)
   千那

   津の国播广路一見の時
      山路にて冠那にわかるゝ贈答

松茸の笠ももたけぬ別れかな
   千梅

秋豆のはちけて今日は分かな
   冠那

   おなし時雨宮の駅にとまりて

いさよひや鯛つる沖の底光
   冠那

   おなし時在馬の湯本にて

いさよひや須广の虱をはたきけり
   千梅

   越の弘智坊

此輿也あなめの薄生もせす
   千那

    鹿島 重陽

菊の味畳込てやひたち帯
   仝



  題東海道五十三句

    杖突

饅頭に蠅のたかるや秋の風
   冠那

   桑名市中風帆

吹れ行身は七里半散一葉
   千梅

   池鯉鮒

やぢ馬にしかみ付たるみそれ哉
   千梅

    八橋

青貝のはしも朽たりかきつはた
   千那

    赤坂

荻萩やいつれしなへに目利せむ
   千梅

    吉田 繩手

木からしに鐘のむせひや戻り馬
   仝

    二河 白菅旅舎

旅籠屋に柿の葉ちつて布団哉
   千梅

    荒井

吹まくる礒に苦しき鵆かな
   千梅

   懸川名産

葛めせといふ裏みれは散柳
   千那

    佐夜中山

犬蓼に命也けり秣はら
   仝

   大井川

  水の浅深を何文川と答へたるは島田金
  谷の賊なりと呵りたる風雅人も有けり
  雍樹(カタクマ)と云物して旅人を助くる
  冬川の気色又哀れ也

幾人の胯をくゝれは年の暮
   千梅

   駿府

寒菊に蝶舞ふ国の日向哉
   千梅

   清見潟

  二更の月に浪枕して 阿仏の尼 もかゝる
  めには逢けむと我師のたはふれけにま
  ことなりけり

夕立のあと腥し清見寺
   仝

   由井蒲原眺望

田子の浦に打出てみれはそばの花
   千梅

   三島

瓜むかんさらは清水の柳陰
   千梅

   筥根路

卯の花の浪てすそする足毛哉
   千那

岩も木もひしけひしけと蝉の声
   千梅

    大礒

川苣や虎か差味のなれの露
   千那

    戸塚 神奈川駅舎

鈴音に寤させぬ比や初鰹
   千梅

    品川 行路

歩行涼し誰か手をくまん鈴か森
   千那

一時の浪に遊ふか芝さかな
   仝

須磨明石紀行
   千梅亜靖述

ことし悲母の沈痾を慰めて都ちかきあたり駕を巡し先温泉を尋ねて津の国在馬山に分入らむとす時は享保第六辛丑南呂の天桂風衣に落てかたへ涼しく野艸露を帯て道芝に玉を点行旅嬉しく時を得たり病躯介抱の助にとて姪いもうとの誰かれ引つれ立湖東の栖を思ひたつ旅に風雲のおもひなく駅路にゆく水の影をうつさすよろつ慰めぬる心からつね旅の情には聊かはるならん山科日の岡なんとつね行かふ処なから駕(ノリモノ)の尻付して時節の景行も模様づきたり

   王城へ秋を吹込稲葉かな

京にひと日二日とゝまるほと冠那来る嬉しく行連んとかたらひたるにさりかたき世の中の事あれは跡より必と契りて別れぬ

   花すゝき別れちからや袖と袖

けふは鳥羽羽束師を過伏見より夜舟さし下て神崎に趣馴ぬ船路のいと苦しけなるを

   膝撫て咄も闇し二日月

葉月十四日に成ぬ冠那砂林来るさても此ほとのつれつれを語りてやゝ雑談止す今宵はまつ宵也湯場の情を述て月見ありく

   帯髪の揃はぬもよし湯場の月

   まつ宵や大な声てやつて見る

   待宵や先光らする湯女か櫛

湊川に 楠か墓 を尋ぬ碑の銘に嗚呼忠臣楠子亡墓と記水戸黄門再タマフ鉄肝石心此人の情と翁も一句のしはふきをのこされけり金セツ(※「金」+「截」)の勇気今も験のうへにあらはるうしろの里に医王山 広厳寺 あり則正成自害の地也本尊は薬師如来楠信仰の毘娑(ママ)門正成鎧の像同筆蹟軍配団采幣串等是を見る

   男気な穂蓼にいとゝ秋の風

明石に至る人丸塚 は少し妻手に引入松林ひら山のうへに立つ碑の銘あり昔当城の主松日向守建之かたはらに盲杖竹在まことあかしの浦ならはとねり出して忽に目のひらきぬる哥道の妙義はさる事なから仕合座頭なりけんかし神祠に詣す 号正一位人丸大明神 拝殿より彼海原を見渡ス其風景言語を断てたゝ泪のおつるはかり也しはらく此処に時をうつす

   まつ嬉しほのほの明に厂の声

   鰯引舟も拝や霧の海



鎌倉海道 下

千梅林の記
   亜靖述

古翁の芭蕉庵は元深川 長慶寺 の地なり 花の雲鐘は上野か と眺望せられし俤なつかしく今も残りぬ。か千梅林は 此川下や月の友 と小船に棹をさゝれし 五本松 と云処也風雅は必住所にしもよらされとも 西上人 はとくとくの清水を汲れ 能因 は象潟に杖を止いつれか景色の住を求めさる吾湖東に生れて八の景に冨就中此深川を隔年の栖とすさるは 無名 幻住 の風雅にやつれたる類にはあらす宅は百畝の廛にゐて門に万里の船を繋其哄しき事三旬に半日の閑を求むるに暇なしされと水石に遊はしむるは心の根さし自にして庭に数根の梅老たり

千師一とせ 白馬紀 の時始て千梅の字を称して一句を賦す是より予か別号とはなれりける



    泉岳寺
   義士四十七人の墓を見る

呼子鳥おのおのすごき石の角
   千那



   三河の国に褒美の里と云所あり
   其処に至りて里の名の面白けれは
  芭蕉
梅椿早咲ほめんほびの里
   翁

雪沓もまた干ぬ軒の梅花哉
   千那

   老躯病床

炉は寒ク尿瓶に聞や鉢たゝき
   千那

   仝 述懐

消のこる伽の灯影の夜は寒し
   仝

   病床に伽して

雪中の梅をもりけり硯蓋
   千梅

   仝

毛蒲団の上に口おし雪の梅
   角上

誰夢に僧を孕かむめの風
    敬雨

此一句は滅後の今を訪はれける追福の吟也
奠章の次手あれは爰に并へぬ



辛崎の松は花より朧にて
   芭蕉

山はさくらをしほる春雨
   千那

此発句は世人知翁の吟也湖水の眺望を詠せられし葡萄坊にての句也去比或集に此句の事を記湖南尚白亭にての吟と云へり大に非也まさに此脇の句証拠なりされは此句に脇ある事蕉門俳諧師しらぬも残おほしよつて是を記此句はしめは松は小町か身の朧とも申されしか師弟鍛錬の後花より朧には極りぬる且此脇の句花に桜大秘伝也ちかき比人の語リけるは伊勢国のあたりにて辛崎伝授とて専ら沙汰し侍る事在慥(たしか)に是等の事ならんと云り此発句脇の事ならは習ふ人必御無用たるへし外人の知事に非す



   不換三公此江山
 千那
月に雁前は小海老の堅田かな

 東に菊を植て見る山
   木導

新酒に新酢の札を張添て
    菊阿

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