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芭蕉の句碑
かきつはた我に発句のおもひあり
知立市八橋町に無量寿寺という寺がある。
八橋山無量寿寺
臨済宗妙心寺派
の寺である。
慶雲年間(704〜8年)に創建された慶雲寺が弘仁12年(822年)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。
知立市八橋町は『伊勢物語』(東下り)で知られる。
三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋と言ひける。
寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の任果てて上京。
『更級日記』
に「
八橋は名のみにして、橋の方もなく、なにの見所もなし。
」と記している。
貞応2年(1223年)4月8日、京都に住む隠者は鎌倉に下る途中、八橋を訪れている。
カクテ参河の国ニ至ヌ。
雉鯉鮒
ガ馬場ヲ過テスリノ野原ヲ分レバ、一両ノ橋ヲ名ケテ八橋 ト云。砂ニ眠ル鴛鴦ハ夏ヲ翁シテ去リ、水ニ立ル杜若ハ時ヲ迎テ開タリ。花ハ昔ノ花、色モカハラズサキヌラン、橋モ同ジ橋ナレバ、イクタビ造カヘツラム。
『海道記』
弘安2年(1279年)10月20日、阿仏尼は八橋に泊まった。
八橋にとゞまらんといふ。暗きに、橋も見えずなりぬ。
さゝがにの蜘蛛手危う
(ふ)
き八橋を夕暮かけて渡りぬる哉
『十六夜日記』
寛文2年(1661年)3月、
西山宗因
は八橋でかきつばたを句に詠んでいる。
八橋
鋤のこせ三河の沢のかきつばた
「西翁道之記」
無量寿寺に芭蕉の句碑があった。
かきつはた我に発句のおもひあり
芭蕉
麦穂なみよる潤ひの里
知足
出典は
『
俳諧
千鳥掛』
(知足編)。
貞享2年(1685年)4月4日、知足亭で巻かれた歌仙の発句である。
芭蕉が貞享元年(1684年)に
『野ざらし紀行』
を終え、翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り俳筵を開いた時の作といわれる。
芭蕉は知足の案内でこの旧跡八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。
碑を建てたのは知足の子孫である
下郷学海
で「安永六丁酉六月」(1777年)とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。
知立市教育委員会
学海は知足の四男鉄叟の子亀洞。千代倉家六世。
寛政2年(1790年)、45歳で没。
「
木曽路を経て帰庵
」とあるが、『知足斎日々記』に「
桃青丈江戸へ御下り
」とあることから、木曽路は通らず東海道を下ったようである。
貞亨4年(1687年)5月2日、大淀三千風は八橋の杜若を詠んでいる。
○五月二日三州吉田觀音院に着。五年目にめくりあひし。各興行過て。さて八橋のむかしを。
杜若鷺立澤と成にけり
『日本行脚文集』(巻之七)
宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、八橋を訪ねている。
むかし男まどひいきて、八橋のほとり、杜若をながめて、例のほとびたるものすゝめし折ふし、かの句の上や出けん。其何と見まゝほしけれと、竹齋が田ばかりにて、はしのかたもなく、むかしと今と、道もかはりたるらむ、いづこしるしもなし。近き里に菴室有。前に池をほりて、杜若をうへたり。いにしへのあとをしたへるにや。
一すしの道をもへだつかきつばた何八はしの名にながるらむ
『白馬紀行』
正徳4年(1714年)、稲津祇空は難波に帰る途次、八橋に立ち寄る。
八橋 に立よる
から衣耳かたふけて頭巾かな
『くち葉
下巻』
正徳5年(1715年)冬、
田中千梅
は季節外れの八橋を素通りして矢矯へ行く。
けふハ雨止たれど空いまた晴やらす。彼
(カノ)
きつゝなれにしと聞ゝし八橋の旧蹟も今時候ならねは余所に見なして矢矯に至る。橋際に馬の眠れる春の旅行をおもひ出ぬ。
「東武紀行」
元文5年(1740年)、榎本馬州は『奥の細道』の跡を辿る旅で八橋の跡を訪ねている。
名にし負ふ澤邊を見れば、あさましき人面獸心の者ありてや、藁古莚の類を捨て置きたり。予見るに忍びず、もすそをかゝけてこれを取りあげ、しばらく白眼にして立ちたり。
業平に違ふてさはぐ諸子かな
『奥羽笠』
宝暦6年(1756年)4月、白井鳥酔は八橋で句を詠んでいる。
八橋 覧古
花に見る翡翠の顔や橋の跡
涼しさよ橋は崩れて鷺一羽
星飯
今も見る畔の蜘手や早苗時
烏明
『風字吟行』
明和8年(1771年)4月12日、諸九尼は八橋の跡を訪ねている。
十一日 三河の国八橋の跡を尋ぬ。夏草しげき細道を、たどりつゝ行ども、かきつばたに似たる花だになし。とある家の軒の下に、むかしのゆかり有がほに、花一ッ二ッみ出せるもうれし。
畦道を蜘手に来つゝ燕子花
案内もむかし男やかきつばた 只言
『秋風記』
安永元年(1772年)、
加舎白雄
は松坂から江戸に帰る途中で八橋を訪ねている。
池鯉鮒を過つゝやつ橋をたづねて、
里の秋沼田の小橋かぞへ行む
「東海記行」
安永9年(1780年)4月26日、蝶夢は江戸からの帰途、無量寿寺に行き句を詠んでいる。
八橋の寺へ行て見るに、まだ残りたる花の有けるに、古き跡のいたづらならぬを、
二番咲も色浅からずかきつばた。
『伊勢物語』の詞に、「沢の辺に下り居て、かれ飯くひけり」と書しこゝろを句に作らんと、
めしの茶は寺でもろふや燕子花
『東遊紀行』
享和元年(1801年)3月5日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で「八橋の跡」のことを聞く。
牛田の立場より四町ばかり北の方に、かの八橋の跡ありとぞ。無量寺といふ寺の池に杜若ありなどきく。さはたり川を後にして池鯉鮒の宿にいる。
『改元紀行』
祖風翁之墓
祖風翁の句碑
かきつばた夏もむかしのなつならず
井村祖風
は、延享元年(1744年)、江戸に生まれ、蕉風の俳諧を学び、文人との交流もあった。岡崎城の本多忠寛と親交があり、その縁で池鯉鮒宿の旅館山吹屋と知り合い、その跡を継いだ。芭蕉を慕い、家業のかたわら俳諧の道に励んだ。自ら蕉門八世と名乗り、よく門人に蕉風を伝え、三河地方の指導的人物であった。
碑は文化8年(1811年)、弟子たちにより建てられたもので、経巻型式に造られたものは珍しい。
知立市教育委員会
寛政5年(1793年)、井村祖風は
芭蕉の句碑
を建立。
本多忠寛は俳人三秀亭李喬。
鶴田卓池
の句碑
鳩の啼樹ははるかなり杜若
弘化3年(1846年)10月、山本翠錦建立。
「八橋の旧跡」は
『東海道中膝栗毛』
にも出ている。
かく興じ、わらひつれて、西田海道より半里ばかり北の方に、名にしおふ、八ツ橋の旧跡を思ひて
八ツはしの古跡をよむもわれわれがおよばぬ恥をかきつばたなれ
ほどなく知鯉鮒の駅にいたる
昭和14年(1939年)4月16日、
種田山頭火
は無量寿寺を訪れた。
無量寿寺
くもりおそく落ちる椿の白や赤や
『旅日記』昭和十四年
種田山頭火は
明治用水
を歩く。
芭蕉の句碑
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