このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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東海道
東海道松並木
〜小林一茶の句碑〜
来迎寺一里塚
から東海道松並木へ。
東海道松並木
徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏のある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長9年(1604年)のことである。当時幅2〜4間(3.6〜7.2メートル)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、遂年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである。
知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60〜70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松喰虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。
「池鯉鮒」宿の標柱があった。
江戸時代東海道池鯉鮒宿は
品川宿
から数えて39番目に当たる宿駅で、江戸日本橋から84里17丁(約330km)あり、京都までのほぽ3分の2の地点にありました。
正徳5年(1715年)11月、田中千梅は熱田から鳴海を通り、池鯉鮒に泊まったようである。
明
ケ
の日ハ桑名泊り翌あさふね也駿風時の間に熱田 に着船をあがり鳴海潟たどり行に冬気色定めなく霙まじりに降出して行先も見えす馬をたのみに三四里を漸に喘
(アエギ)
付きぬ
『東武紀行』
文化2年(1805年)11月9日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で池鯉鮒を通る。
十日けふも空晴たり。つとにやどりを出て、前後村の立場にいこひ、池鯉鮒大濱茶屋をこえ、矢矧橋をわたりて、左の方なる松のなみたてる野道より、堤をゆく事半道ばかりにして、川の邊に出たり。
『小春紀行』
小林一茶の句碑
があった。
はつ雪やちりふの市の銭叺
『七番日記』より 真蹟拡大。
平成2年(1990年)11月、市制・文協20周年記念に建立。
小林一茶(通称弥太郎)は江戸後期の俳人。宝暦13年(1763年)信濃の柏原にて生まれる。15才の春、江戸へ出る。奉公生活のうちに、いつか俳諧をおぼえ、28才の時、「二六庵」の名跡をついで宗匠となった。その後、30才から6年間、上方・西国方面を行脚した。この旅を通じて、当地方では岡崎の
鶴田卓池
、名古屋の
井上士朗
たちと交渉があり、
『旅拾遺』
や
『さらば笠』
の句集を刊行している。文化10年(1813年)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を「はつ雪やちりふの市の銭叺
(かます)
」と詠んだ。下句を「銭の山」と詠んだのもある。これよりさき元禄5年(1692年)に芭蕉は「
不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市
」と詠んでいる。奇しくも江戸期俳壇を代表する2人が当地の繁昌を詠んだのである。ここに昔日の繁栄を偲び、新しい時代を期待して句碑を建立した。
知立市文化協会
文化10年(1813年)、一茶は信州を出ていない。
はつ雪[や]ちりふの市の銭叺
『七番日記』(文化10年11月)
はつ雪やちりふの市の銭の山
『七番日記』(文化10年閏11月)
街道
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