このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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東海道
品川宿
今日は旧東海道の品川宿を歩いてみる。
うち興じて、ほどなく品川へつく。弥次郎兵へ
海辺をばなどしな川といふやらん
と難じたる上の句に、きた八とりあへず
さればさみずのあるにまかせて
『東海道中膝栗毛』
品海公園
「東海道 品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の53の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関ロ」として栄え、宿内の家屋は1,600軒、人口7,000人規模で賑わっていた。
今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かっての宿場町としての活気が息づいている。
聖蹟公園は品川宿本陣跡。
品川宿本陣跡(聖蹟公園)
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南北品川宿に1軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。
大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。
明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。
品川橋
南品川宿河岸(俗に百足河岸)
品川橋際の目黒川沿岸
江戸時代、品川領の村々では、年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御蔵に送っていました。
この南品川宿河岸のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは、南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。
明和8年(1771年)3月晦日に京都岡崎を跡にして、4月29日に諸九尼は品川に着いた。
廿八日 品川にいたりぬ。都よりはいさゝかのしるべ有て、本町田中氏の家に尋入りぬ。小右衛門といふ人の、情ぶかくいたはり聞へ
(え)
られけるに、此ごろの道の疲をわすれぬ。
『秋風記』
享和元年(1801年)、
鶴田卓池
は
井上士朗
に随行して江戸へ旅をする。
品川や舟のあはひに春の海
『東都紀行』
嘉永4年(1851年)4月9日、
吉田松陰
は藩主に従って江戸に向かう途中、川崎から六郷川を渡り品川へ。
一、九日 翳。丑半時に河崎を發す。舟にて六郷川を渡り、品川に抵る。乃ち天明けたり。
『東遊日記』
嘉永6年(1853年)9月18日、吉田松陰は品川に出て、長崎に赴く。
朝、桶街の寓居を發し、象山師に過りて別れを告げ、品川驛に出づ。
『長崎紀行』
安政6年(1859年)5月25日、吉田松陰は幕府の命により萩から江戸に護送された。6月24日、品川で護送の人々に別れる。
護送の人々に別るとて
歸るさに雁の初音聞き得なば吾が音づれと思ひそめてよ
「涙松集」
品川橋を渡ると南品川宿。
南品川に
品川寺
がある。
地蔵菩薩坐像
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