このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
鶴田卓池
卓池の句
『奥羽記行』
・
『奥羽記行』
(自筆稿本)
・
『諸国人名録』
・
『諸国人名録』②
名は光貞。通称は与三右衛門。別号柏声舎。青々処、藍叟。
卓池姓は鶴田、通称与三右衛門、青々処又藍叟と号す。其先河内国より来りて数代三河国岡崎の菅生に住、染采を以て業とす。若きより正風の俳諧を好て、始暮雨巷暁台の門に遊び、後枇杷園士朗に随て研究す。
『青々処句集』
『俳人住所録』
(文政4年)には「
卓池
岡崎満生寺前
鶴田与惣佐衛門
」とある。
明和5年(1768年)、紺屋鶴田光雅の子として生まれる。
天明4年(1784年)、
加藤暁台
の門人となる。
寛政3年(1791年)4月21日、岡崎を出立、
『奥羽紀行』
の旅に出る。7月3日、岡崎に帰る。24歳の時である。
寛政4年(1792年)1月21日、加藤暁台没。暁台没後は
井上士朗
に師事。
暁台 翁追善
初ざくら見つゝもこぼす涙かな
『青々処句集』
寛政9年(1797年)秋、信濃行脚。
それより四十八曲なといふ立峠の難所を越てその夜は青柳にやとり露の高菅胸わけして御姨捨山の姨石のもとにたとり付けり
過し夜の月を問はやはなすゝき
善光寺
秋の夜は何につけても月よかな
諏 訪
たをらすはこれらも穂家の芒哉
享和元年(1801年)2月、井上士朗に随行して江戸へ旅をする。3月18日、江戸を立ち信州へ。
『鶴芝』
。
『東都紀行』
。
文化元年(1804年)、鶴田卓池は
「吉野紀行」
の旅をする。
文化9年(1812年)5月16日、士朗は71歳で没。
暮雨大人身まかりたまひてより朱樹の翁に因ミよること二十余年なりことしハいかなる年にや緑咢の梅花をむすひ檐外の苔もえる頃より日頃の病つのりて言語を塞ぎ時鳥鳴さかる頃は飲食日に日に滅して良薬さへ咽を通らす既にそのとき此歎あらんことを思ひはかるといへとも心にふかくしのひしのひて今日にいたる今日誠の柩を拝し悲歎の涙一時に五月一七日
やるせなき音や馴染の松の雨
文化14年(1817年)夏、鶴田卓池は
井上士朗
の七回忌追善を1年繰り上げて
誓願寺
で行う。追善集『たかむしろ』刊。
文政初期、
『諸国人名録』②
成立。
文政3年(1820年)10月2日、卓池は一茶に『犬筑波』を送る。21日届き、11月11日に一茶は礼状を出している。
朱樹翁
十三回忌の追善をいとなむ日、庵の物わけて喰ふとまであはれまれける其鳥の声をきゝて
今日こゝにちなみわすれず閑古鳥
『青々処句集』
文政10年(1827年)4月27日、岡崎を出発、長崎へ旅立つ。
「長崎紀行」
11月28日帰着。
『西遊日記』
天保6年(1835年)、卓池は三州街道を経て園原の月を見て、『月見紀行』を遺しているという。
天保12年(1841年)8月15日、宗円寺十三世明誉圭布は
卓池・翁の句碑
を建立。
かゝやきのますはかりなりけふの月
卓池
此道や行人なしに秋の暮
翁
天保14年(1843年)、芭蕉の百五十回忌に卓池は門人数人を伴い粟津の
義仲寺
に墓参。
『於椎集』
天保14年(1843年)、芭蕉の百五十回忌・一茶の十七回忌に『あられ空』(山岸梅塵編・法眼護物序・卓池跋)刊。
弘化3年(1846年)8月11日、79歳で没。
弘化3年(1846年)10月、山本翠錦は
鶴田卓池の句碑
を建立。
鳩の啼樹ははるかなり杜若
嘉永4年(1851年)、卓池の七回忌追善集
『青々処句集』
刊。
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