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俳 人

加藤暁台
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『暁台句集』

 名古屋三俳人の一人。武藤巴雀・白尼父子に師事。別号買夜、暮雨巷。別姓久村。名は周挙。字は後一。

可都里 『名録帖』 に「暁台桑名町一丁目 久村後一」とある。

名古屋市の 久屋大通公園 に「名古屋三俳人句碑」がある。



名古屋三俳人句碑

くさめして見失うたる雲雀哉
    也有

椎の実の板屋根を走る夜寒かな
   暁台

たうたうと滝の落ちこむ茂りかな
    士朗

文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。

 人各々好む所あり。 蕪村 の雄放、暁台の剛健、 蘭更 の艶冶、 白雄 の老蒼、 蓼太 の富麗等、いづれも五家の本領たり、特色たり、取て模範とすべく、以て作家の詩料に資すべし。是れ中興五傑の編ある所以なり。

伊藤松宇 『中興俳諧五傑集』

 享保17年(1732年)9月1日、尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれ、同藩士加藤仲右衛門の養子となる。

 宝暦12年(1762年)10月、矢作の橋守園連中は聖願寺十王堂に 蛙塚 を建立。買夜(暁台の前号)書。



古池や蛙飛込む水のおと

 宝暦13年(1763年)、記念集 『蛙啼集』 (暁台自序)。

 明和2年(1765年)秋、信濃路・武蔵野の旅をする。 也有 の紹介で鴻巣の 布袋庵 を訪ねている。

送暁台辞

 此秋、名にしおふ更科の月ミん、それより武蔵野の露をも分けばやと思ひ立てる暁台を送る。其行先の信濃路に、我知れる千丈・友梅なるお(を)のこあり。武蔵に布袋庵の主、殊に年来の交あれば、我が一言を伝へて立よらむに、仮のやどりをも惜むまじ。行くればよし此陰によりて、心の花のあるじとせよと、陽関の一句を筆して別るゝ衽(えり)にさしいれぬ。

   漏らぬ宿お(を)しえ(へ)む月の旅ながら

 明和7年(1770年)3月16日、名古屋を立ち『奥の細道』の跡を辿る。『送別しをり萩』、 二編しをり萩』 。仙台を訪れ、 山田丈芝 と出会う。

 安永元年(1772年)12月、 『秋の日』 (暁台編)刊。也有序。

 安永2年(1773年)春、丈芝は名古屋へ赴き暁台に俳諧を学ぶ。

 安永3年(1774年)4月、暁台は丈芝を伴って上京。7日、 夜半亭 興行。

   夏四月七日、於夜半亭興行
   長安萬戸子規一聲

ほとゝきす南さかりに鄙くもり
   曉臺

垣のあなたのみしか夜の河
   蕪村

草高きあづち平いらにならさせて
   丈芝
   (※「土」+「朶」)
人の履たる足駄かるなり
   几董

『宿の日記』(初稿)

 安永3年(1774年)9月、加藤暁台は義仲寺の幻住庵に滞在。 蕪村 来訪。

洛の夜半主人、幻住庵のかり寐訪れし時

丸盆の椎にむかしの音聞む ときこえしに、かたみて月を松もとの山 とかい付侍る。

日頃おもひまうけし事ども、とひもしいらへもしつ。月は四更にかゝる。夜のかさねいとうすく、裾引かくし肩おしならべて夢境に入、叟がしわぶきに目ざめて

暁の寐すがた寒し九月がや(※「巾」+「厨」)


 安永4年(1775年)3月、加藤暁台は 『去来抄』 (去来著)板行。暁台序、士朗跋。

 安永4年(1775年)5月、 『熱田三歌仙』 (暁台編)自序。

 安永4年(1775年)6月12日、暁台は 出雲崎 から佐渡へ渡る。29日、出雲崎に戻る。

俳人で佐渡へ渡った紀行のあるのは暁台位のものであろう。出雲崎旦水の著「佐渡日記」に詳しい。安永四年六月十二日出雲崎から赤泊に渡って、渋手から沢根に渡り、それから相川に出で、金北山を経て夷に出ておる。真野御陵に参拝して「啼く蝉も」の句をよんだが、根本寺などには参らぬようであった。

河東碧梧桐 『三千里』

 安永5年(1776年)2月、暁台は上京。 蕪村 を訪ね、伏見・嵯峨に遊ぶ。

   暁臺が伏水・嵯峩に遊べるに伴ひて

夜桃林を出てあかつき嵯峩の櫻人


 天明元年(1781年)、加藤暁台は江戸に出て、周辺を遊歴。

 天明2年(1782年)、隅田川西岸再可子の楼上で新年を迎える。

 天明2年(1782年)、 『風羅念仏』 (房総の巻)刊。

 天明2年(1782年)9月、加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る。

   老情旅にせまりて再び白川の関をこゆる。

見つゝゆけば茄子腐れて往昔(むかし)


 天明3年(1783年)3月2日、加藤暁台は上京。湖南 幻住庵 、洛東安養寺端寮、 金福寺 芭蕉庵の3ケ所で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。 『風羅念仏』 (法会の巻)刊。

 天明3年(1783年)秋、加藤暁台は信濃から甲斐に赴き、可都里を訪ねている。

信濃の道くだり、甲斐の国に歩みを引ちがへて行ほど、藤田の可都里は年頃文してしれる好人なれば尋ぬ。其夜ごろにもあれば、月を見せばやなどわりなくとゞめられ、望の夜もこゝに遊ぶ。士峯の北面まぢかくひたひにかゝるやうなり。

高根はれて裏行月のひかり哉


 天明3年(1783年)冬、加藤暁台は上田に来遊、 大輪寺 で歌仙を巻く。

 天明6年(1786年)8月1日、母を喪う。

   亡母野送り

霧煙今や骨ならむ肉ならむ


 天明6年(1786年)9月9日、大津に遊ぶ。

   菊の九日遊大津旧都

けふの菊なき世の都めぐり哉


 天明7年(1787年)、栗田樗堂は京都・大和・尾張を巡る。 『爪しるし』 暮雨奄暁台序。

  『暮雨句集』 (曰人稿)。「暁台先生発句聞書 寛政三年七月八日曰人写」とある。

寛政4年(1792年)1月21日、61歳で没。

寛政5年(1793年)、一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)。

寛政11年(1799年)、 『幽蘭集』 (暁台編)。臥央校。

亨和元年(1801年)8月、 暁台の句碑 を建立。



人の親の焼野のきゝすうちにけり

文化6年(1809年)、 『暁台句集』 (臥央編)刊。士朗序。自跋。

文化14年(1817年)、大坂の俳人三津人は 芭蕉の句碑 を建立。



あかあかと日はつれなくも秋の風

右側面に暁台の句が刻まれている。

春風の夜は嵐に亂れ鳧

愛知県犬山市の 尾張冨士大宮浅間神社 に暁台の句碑がある。



秋の山ところどころに煙たつ

名古屋市南区笠寺町の 笠覆寺 に「暁台塚」がある。



さむ空にたゞ暁の峰の松

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