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俳 人

高桑蘭更
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高桑蘭更ゆかりの地

 石川県金沢の俳人。本名は忠保。和田希因に俳諧を学ぶ。同門に 建聖寺 の住職既白がいる。別号半化坊、二夜庵。

可都里 『名録帖』 に「闌更双林寺前芭蕉堂 三条通白川橋西へ入所」とある。

文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。

 人各々好む所あり。 蕪村 の雄放、 暁台 の剛健、蘭更の艶冶、 白雄 の老蒼、 蓼太 の富麗等、いづれも五家の本領たり、特色たり、取て模範とすべく、以て作家の詩料に資すべし。是れ中興五傑の編ある所以なり。

伊藤松宇 『中興俳諧五傑集』

枯芦の日に日に折て流れけり」と詠み「枯蘆の闌更」「枯蘆の翁」呼ばれた。

 宝暦12年(1762年)、金沢に 芭蕉の句碑 を建立。



うらやまし浮世の北の山ざくら

 宝暦13年(1763年)、野蛟神社に芭蕉七十回忌を修し、『花の故事(ふるごと)』を刊行。

 明和元年(1764年)、 『千代尼句集』 (既白編)刊。藤松因序・半化闌更跋。

 明和5年(1768年)、深谷の俳人南柳亭素山たちによって 菊図坊祖英塚 が建立された。



塚の銘は加賀の人半化坊闌更の書。

 明和6年(1769年)、 俳諧有の儘』 (闌更編)。梨一序。

 明和7年(1770年)夏、門人葉庵大阿を伴い金沢を去る。

 明和7年(1770年)8月22日、戸倉の 鳥奴宅 で句会。 加舎白雄 は高桑闌更と論争。

  同年11月、上田に滞在。

 明和9年(1772年)、南牧村に 「蝉碑」 建立。高桑闌更書。



閑さや岩にしミ入蝉の聲

安永2年(1773年)、記念句集 『蝉乃声』 刊行。

 安永2年(1773年)、高桑蘭更は本庄にやって来たといわれている。 戸谷双烏 は高桑蘭更と交友を結んだ。

同年、雲嶺庵 鷺白 は高桑蘭更に入門。鷺白は 望雲 七代目黒岩忠右衛門。

「ホテル望雲」の玄関の脇に碑がある。


六月やい多る處に温泉の流れ   蘭更

  氷室能さくら山ほとゝぎす   鷺白

 文化六己巳水無月


 安永3年(1774年)3月、菊図坊祖英追善のために 俳諧菊の露』 刊行。

南柳亭素山、半化坊闌更序。行脚俳人蝶阿跋。

同年4月、北国街道横吹八丁の山道に 芭蕉の句碑 を建立。

芭蕉翁


いさよひもまた更科の郡かな

 安永3年(1774年)11月、江戸に二夜庵を開く。門人甚化、一菊が同居する。 『萩の枕』

 安永4年(1775年)、 『雪満呂気』 (曽良遺稿)序。

 安永4年(1775年)、 『草津集』 (一菊編)上梓。闌更序。

 安永5年(1776年)、 『三冊子』 (土芳著)刊。闌更序。

 天明3年(1783年)、『風羅念仏』(法会の巻)。 士朗 序、はせを堂蘭更 跋。

 天明6年(1786年)、京都東山雙林寺に 芭蕉堂 を創立。



 天明7年(1787年)、 『半化坊発句集』 刊。

 天明7年(1787年)9月13日、 長月庵若翁 は大坂湊橋から船出して帰郷。闌更は送別の小序を寄せている。

送別 小序

洛東 芭蕉堂 闌更

長月菴のあるし旅に星霜をふる事、三十とせあまりあるハ三絶にやつれあり、時には三都に腹ふくるゝといへとも千盃に知音を求す、一盞の古茶に知己を忘れされハ、ことしこの秋ふる里に歸んことを告来るに、崎陽のなかめも遠からされハ、槇桑の外の風流もあらむと

   后乃月もろこし人もみちひけよ

かく蛙鳴をしるして餞のはしめにをく

誹諧曇華嚢』

 天明8年(1788年)、闌更は可都里を訪れて歌仙を巻く。 『農おとこ』 (可都里編)刊。闌更序。

 寛政2年(1790年)、 『華鳥風月集』 (桃路編)刊。 完来 序、闌更跋。

福島県南会津町の 薬師寺 に芭蕉の句碑がある。


やまさとは万歳遅しうめの花

 「闌更拜書」とあるようで、寛政5年(1793年)の芭蕉翁百年忌頃に建立されたものの再建碑らしい。

 寛政7年(1795年)夏、一茶は芭蕉堂の高桑蘭更を訪問して歌仙を巻く。

   芭蕉堂之会
   

   
月うつる我顔過ぬほとゝぎす
   闌更

   
   風こゝちよき入梅晴の道
   亜堂


『さらば笠』に高桑蘭更の餞別吟がある。

   離道に樽を開てなごりを惜む
   

   
まてしばし都の富士の花七日
   闌更

   
   東はいまだ寒げなる空
   一茶


 寛政7年(1795年)冬、高桑闌更「俳諧続七部集」編。 俳諧深川集』『卯辰集』『韻塞』 ・『刀奈美山』・ 『有磯海』『芭蕉庵小文庫』『千鳥掛集』

 寛政8年(1796)6月、 善雄寺 の住職尭慶上人が似鳩・闌更の後見で芭蕉の句碑を建之。



此あたり目に見ゆるもの皆涼し

 寛政10年(1798年)12月14日、一茶は高桑蘭更に書状を出す。

十二月十四日
一状一通 京東山ばせを[堂] に遣ス


寛政11年(1799年)5月3日、高桑蘭更没。

 門弟に 桜井梅室 、成田蒼キュウ※キュウは虫+おつにょう深谷宿 の杉田素山、 坂木宿 の児玉鉄舟がいる。

境町の俳人 織間専車似鳩 の紹介で高桑蘭更にも師事した。

享和元年(1801年)、鉄舟は 高桑蘭更の句碑 を建立。



よこふきや駒もいななく雪あらし

埼玉県小鹿野町の 観音院 に高桑蘭更の句碑がある。


山陰や烟りの中に梅の花

大津市の 浮御堂 に高桑蘭更の句碑がある。


病雁も残らで春の渚かな

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