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俳 人

大島完来
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完来の句

伊勢津藩士。通称は吉太郎。

俳諧を二世宗瑞、のち 大島蓼太 に学ぶ。蓼太の養子となる。

 天明7年(1787年)9月7日、蓼太没。11日、完来は駿府で急報を受ける。14日、帰庵。10月7日、四世雪中庵号と嵐雪伝来の点印とを継承した。

天明7年(1787年)11月、 雪中庵蓼太の句碑 を建立。



世の中は三日見ぬ間に桜かな

大島完来の揮毫によるものだそうだ。

天明8年(1788年)、『歳旦歳暮』(完来編)刊。

 雪中菴
んめ柳生いてにけり明の春
   完來

 寛政2年(1790年)、 『華鳥風月集』 (桃路編)刊。完来序、 闌更 跋。

 寛政2年(1790年)、吉田徐生は普大寺の庭に 芭蕉の句碑 を建立。雪中庵完來書。



白露もこほさぬ萩のうねり哉

 寛政10年(1798年)3月3日、小林一茶は雪中庵完来に 『さらば笠』 の送り状を書いている。

 追々春色、日夜の御風流奉察候。しかれば此度集らしきもの仕候へば、しんじ候、御笑納可被下候。以上。

  三月三日

   苗代の雨を見て居る戸口哉

   なの花に四ツのなる迄朝茶哉

      鮎汲

   あつちこち鮎逃て已に入日かな

などゝくだらぬ事、御評可被下候。

一茶

 雪中庵様

 この送り状は 戸谷双烏 に届けられたが、双烏は何故か、そのまま仕舞い込んでしまった。

 寛政12年(1800年)8月、大江丸は江戸に下る。

ゆめかとぞふたゝびむすぶ袖が浦
   大江

 我に正しく父在(おは)す秋
   雪中

月のしもつめたき熟柿火にあてゝ
   牛心
   (午)


 享和元年(1801年)2月、『俳諧袋』(大江丸編)刊。雪中菴 蓼太 ・雪中庵完来 序。

 亨和2年(1802年)2月25日、 聖廟900年御忌句碑 を建立。雪中庵完來書。



句碑の背面に完来の句が刻まれているそうだ。

松の月月の松影よもすから   四世雪中庵完来

 姨捨山の 長楽寺 観音堂に文化7年(1810年)の俳額と弘化2年(1845年)の俳額がある。

 文化7年(1810年)の俳額には三世雪中庵 大島蓼太 や四世雪中庵大島完来 の句が奉納されているそうだ。

奉納

文化庚午雁来三五日

月を出てつきに野山に入夜哉
   雪中庵 蓼太

いにしへの月夜むかしの野山かな
   雪中庵 完来

 文化10年(1813年)、横浜市磯子区の 熊野神社 に大島蓼太の句碑建立。大島完来書。

大島蓼太の句碑


梅が香に腹ふくるゝや帆かけ舩

 文化11年(1814年)10月、丸子驛竹室社中は 芭蕉の句碑 を建立。雪中菴完来 書。



梅わかな丸子の宿のとろゝ汁

 文化13年(1816年)2月、阿漕庵村田雁路は 芭蕉の句碑 を建立。雪中庵完來筆。



阿漕塚

月の夜能何越阿古木尓啼千鳥

 文化13年(1816年)11月、 『迹祭』 刊行。

   六 晴 『迹祭』六十部信州送

『七番日記』(文化13年11月)

一茶は著名俳人に配ったが、 道彦 や完来はろくに返事をしなかったようだ。

 みち彦・完来両人は、集とゞけ申候ても、返事いたさざるや(よ)し、世間あいつらへはて(照)り申まじく候間、右御せうち可被下候。

魚淵宛て書簡(文化13年12月2日)

文化14年(1817年)4月18日、70歳で亡くなる。

深川 要津寺 に四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑がある。

円形墓碑


文政元年(1818年)9月、 芭蕉と完來の句碑 を建立。


うらやまし浮世の北の山櫻
   芭蕉翁

海はれて動かぬ星や秋の空
   完來

文政5年(1822年)2月、 完来の句碑 を建立。


花のやよひ一日はなのなくもかな

五世雪中庵 対山 書。

天保2年(1831年)5月、 芭蕉の句碑 を建立。



御命講や油のやうな酒五升

大島蓼太と大島完來の句が刻まれている。

此の山の茂りや妙の一字より
   蓼太

法華經とのミ山彦も取りの音も
   完來

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