このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
戸谷双烏
双烏の句
本庄
の豪商「中屋」の三代目。本名は戸谷半兵衛光寿。紅蓼庵。
双烏 本庄宿 中村半兵衛
『諸国人名録』②
安永3年(1774年)、本庄に生まれる。
天明6年(1786)年、
高桑蘭更
は京都東山雙林寺に
芭蕉堂
を創立。
芭蕉堂
寛政5年(1793年)、京都東山に「芭蕉堂之記」を建立。記念集
『此まこと』
(双烏編)。
寛政6年(1796年)3月23日、
倉田葛三
は春鴻と信州に向かう途中、双烏の紅蓼庵で三吟歌仙を残す。
寛政六年甲寅三月廿三日 紅蓼庵俳諧連歌
紅梅や雨ふきかけし上草履
春鴻
眠たさつのる春をもの書
雙烏
さいきたつ雁のはらはら人なくて
葛三
寛政6年(1794年)、
常世田長翠
は双烏のもとで、享和2年(1802年)まで小蓑庵を営む。
寛政9年(1797年)3月、戸谷双烏は常世田長翠、亀田几外と
善光寺
詣でをする。
善光寺本堂
寛政10年(1998年)6月22日、小林一茶は戸谷双烏に
『さらば笠』
を送り、配付を依頼した。
あつさの節候へども、御安清ニ被遊[候]哉、奉賀。しかれば、此度『さらば笠』一蓋、玉吟も加入仕候へば入貴覧、御笑納可被下候。小人も近々尊地へおもぶき候へば、秋比は可得尊意と奉存候。御風交可被下候様奉頼上候。以上。
六月廿二日
一茶
時鳥手のとゞく程に通りけり
たのしみの一汗入木かげ哉
河縁の冷汁すへて月夜哉
などゝ貴評可被下様候。
二白 何とぞ所々え
(へ)
とゞけ可被下候様奉頼上候。
双烏は何故か封書入書冊を開かずに、そのまましまい込んでしまった。
「
小人も近々尊地へおもぶき候へば
」とあるが、一茶は双烏のもとに立ち寄ることはなかったようだ。
双烏宛の書簡は『さらば笠』と共に封緘されたままになっていて、昭和10年頃、戸谷家の藏から発見された。
享和元年(1801年)、
井上士朗
は江戸から信州へ旅をする途中で、本庄宿に立ち寄った。
二光山赤城山見ゆる。
本庄宿
。
雉子鳴て猫をよび込篠屋哉
双烏
ちる花は朧烏のねぐら哉
長翠
『鶴芝』
文化12年(1815年)夏、双烏は神流川の両岸に
石灯籠
を建立。
晩年は
川村碩布
や
久米逸淵
などが双烏のもとを訪れている。
嘉永2年(1849年)4月6日、76歳で没。
安養院
に双烏の墓がある。
安養院
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