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俳 人

久米逸淵


名は久米清一郎・清右衛門。 川村碩布 門。別号可布庵。飄隠居。

逸淵 江戸木挽丁壱丁目   可布庵


逸淵 一号飄隠居 東都木挽町壱丁目 可布庵

 蜂の巣や撞ぬ尾上の鐘の中 逸淵


 寛政2年(1790年)、児玉村(現本庄市)の旧家久米家に生まれる。

 文政6年(1823年)9月13日、 海晏寺 で白雄三十三回忌法要。可布は父の病気で参列できなかった。

 文政10年(1827年)、信濃に一茶を訪ねたという。

 こたび同国の一之、家に伝へし坊が遺稿をその儘上木して、追慕のこゝろざしを尽す。予も亦旧知己をわすれず、坊が命終の年、柏原の旧里を訪ひて往時をかたるに、あるひ(い)は泣、あるひ(い)はわらひてわかれぬ。

 文政11年(1828年)3月、上州高崎で碩布を継いで春秋庵を開く。

   春秋庵嗣號

花守か子孫の数に入にけり


 文政6年(1823年)3月25日、武州中瀬の斎藤南々宅「ひょうたん競べ」に出向く。

 天保2年(1831)年、芭蕉の句碑建立を発願。

 天保9年(1838年)、 富処西馬 に文台を譲り、江戸の木挽町に出て、可布庵と称する。

   門人西馬の文台披露に

梅老て柳にゆずる垣根かな

江戸の市ヶ谷には上州東小保方村の桐園 詠帰 がいた。

 天保11年(1840年)、 川村碩布 は本庄駅の安養院で八十八の寿賀会を開く。判者5人の中に逸淵がいた。

 天保11年(1840年)、逸淵は赤城温泉に入湯。 苗ヶ島 村に門人草壽がいた。

   赤城山中古調

霧晴露落て山を裂く滝の響きかな
   逸淵

   赤城山中

各々のしつくまとめて秋の声
   同

 天保11年(1840年)、8月2日、竹烟一夏庵の新庵開き祝筵を催す。

   竹烟の新庵をよろこぶ

夏を旨と屋根もかるがる榾木笠
    鳳朗

 草の浮くには足らぬしたゝり
   竹烟

紙に漉く糊温石を撰分け
   逸淵

 天保12年(1841年)、逸淵は妻沼の 五渡 を訪れ、 歓喜天 に参詣。

 天保12年(1841年)、斎藤南々 『蝉塚集』 刊。久米逸淵跋。

 天保13年(1842年)春、 富処西馬 は高崎市の 清水寺 に芭蕉の句碑を建立。



観音の甍みやりつはなの雲

久米逸淵は記念の句会に江戸から臨席したそうだ。

めくりあひむかしのけふの花の雲


 天保14年(1843年)11月9日、碩布没。

 天保15年(1844年)、 西馬 は奥州行脚に旅立つ。暮に可布庵に宿る。

   松島の浪に頭を洗い、月山の霞に口をそゝい
   て長途つゝかなく帰庵を尽す

海山のはなし長夜に餘りけり
   逸淵

 天保15年(1844年)、西馬は寄三と共に故郷へ帰る。

   この日頃草庵の火桶に鼻突合せつる両子故
   郷に春をむかへむとて、あはたゝしう旅立に、
   胸つふれてひきとゝむへきことの言もなけれハ

老ひとりとり残されて年こもり
   逸淵

 弘化2年(1845年)11月28日、 田川鳳郎 は84歳で没。

   悼鳳郎 居士

くたら野に朽ぬ名のミそ残りける
   逸淵

 弘化3年(1846年)4月22日、 碓嶺 没。享年67。

里々のおさまりミゆる干菜かな
   逸淵

太箸を洗い忘れし井桁かな
   西馬

『追善紅葉集』

 弘化3年(1846年)2月15日、逸淵は関西遠遊に門出。9月8日、帰庵。

    鴫立庵

月を見て黙て寝たり西行忌
   逸淵

    義仲寺 通夜

春雨の空も粟津のしくれ哉
   同

 嘉永5年(1852年)、 『おらが春』 刊。久米逸淵序。

 安政2年(1855年)、碩布の十三回忌に 『碩布居士発句集』 (逸淵編)刊。

 安政3年(1856年)、本庄宿に移り、 戸谷双烏 と交遊。

 安政5年(1858年)、本庄市児玉町の 八幡神社 に鋳造の円筒形芭蕉句碑を建立。記念集『すみれ塚集』。



山路來て何やらゆかしすみれ草

 安政5年(1858年)8月15日、西馬は51歳で没。

 万延元年(1860年)、宮城村苗ヶ島の東宮草壽は 芭蕉の句碑 を建立。逸淵書。



雲折々人をやすむる月見哉

晩年は故郷に帰る。

文久元年(1861年)7月20日、72歳で没。

本庄市児玉町の 玉蓮寺 に墓がある。

東光山玉蓮寺


逸淵の墓


手前右手は「椿塚」。

鶯や持つて生れし春の声   逸淵

文久2年(1862年)、建立。

文久2年(1862年)、一周忌集『椿塚集』刊行。

文久3年(1863年)、三回忌に行庵洒雄は追善集 『かりかね集』 刊行。

慶應3年(1867年)7月、七回忌追善 『逸渕発句集』 刊行。

 門弟に高崎の 富処西馬 、玉村の 羽鳥半海 、水沼村の 下平可都三 、本庄宿の 小倉紅於 、深谷市中瀬の 斎藤南々 、江戸の 遠山弘湖 がいる。

東吾妻町原町の 顕徳寺 に芭蕉の句碑がある。


うくひすや柳のうしろ藪の前

逸渕染筆。

逸淵の句

十六夜の月有明もいざよひぬ


宮城野やつらつら蝶の死所


枕にと思ふ草よりけふの月


渡る瀬もなくてしくれる河原哉


啼時の一際赤し雉子のかほ


八百屋にも花屋にもなし佛の座


身にしむや空にしられぬ蝉時雨

  東都に半白の年を迎へて

歯固めや先玉川の水の味


空にさへ偽の有り天の川


名人も人も定まる夜半哉


去年をゝしみことしをまつに、誰々も枕を忘れて、元日の夜は殊にいぎたなければ

人は寝てそちがはるなり嫁が君


まふ蝶に空ハ任せて眠る鶴


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