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俳 人
川村碩布
碩布ゆかりの地
・
碩布の句
『春秋稿』(第八編)
・
『布鬼圃』
(
「善光寺詣」
)
通称は七郎兵衛。別号橿寮
(きょうりょう)
。六気老人。
長翠
、
巣兆
、
道彦
、保吉、
春鴻
、
葛三
、
虎杖
とともに
加舎白雄
八弟の一人。
寛延3年(1750年)、武蔵国入間郡毛呂山郷馬場村(現埼玉県入間郡毛呂山町)に生まれる。
天明(1781−1788)頃、加舎白雄に入門。
天明8年(1788年)4月9日から1週間、加舎白雄 は
海晏寺
で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行う。
海晏禅寺
常世田長翠
、
鈴木道彦
、
宮本虎杖
など白雄門下の主だった俳人はすべて参加した。
同年、
白雄
は碩布亭を訪問。
寛政2年(1790年)、白雄は碩布を訪れ、橿寮で芭蕉忌を営む。
武野中毛呂の邑長橿寮碩布 があるじして蕉翁忌いとなむ日、行嚢に蔵したる遺像を壁にたれつゝ其(の)徳光の一燈をかいたて謹(ん)で諸子と風雲をいのる
担ひもて毛呂に翁のしぐれかな
寛政4年(1792年)6月25日、母其水没。56歳。
母をうしなひて
蝉しくれとハす語りも出ぬなり
『布鬼圃』
寛政5年(1793年)、碩布は
『しら雄句集』
を編纂。
寛政6年(1794年)9月8日、
鈴木道彦
は
巣兆
、宗讃を伴って碩布を訪ねた。
尾花もあとへまねぐと見るに、いつか山根の里、毛呂の碩布が橿寮につきたるなり。洗足に客ぶりをこしらひ、押しならぶに、さらに髪仕たる子の買助てふがいで來て、こゝの家がり來る人は、誰々もみやげせよなどせむるも睦まじ。且つ句あり。はし書は長かりける、
武蔵野に雁をいたはる此のやどり 巣兆
あぢはへてきかす時がらなり。
『そゞろごと』
碩布は関西にも旅をしているようである。
黄鳥をいくつも見たり東山
『春秋稿』(第六編)
文化2年(1805年)8月、碩布は「穂屋祭記行」の旅に出る。
文化4年(1807年)10月、碩布は湯島に庵を結ぶ。
文化四卯十月湯嶋に庵をむすびて
しぐれもる家ももてばや新しき
『布鬼圃』
文化14年(1817年)、碩布は春秋庵を継承。江戸に出る。
春秋庵にて
江戸なれた後になしたし此あつさ
『布鬼圃』
春秋庵のために碩布先生江戸住居するの嬉しさやまひもうちわすれて
此夏の十とせはたとせ遅かりし
葛三
『春秋稿』(第八編)
文政元年(1818年)6月12日、
葛三
没。
鴫立葛三をいたむ
虎か雨又ふる事の出來にけり
『布鬼圃』
文政6年(1823年)9月13日、碩布は
海晏寺
で白雄三十三回忌法要を行う。
先師
の三十三回忌
ますものハ露はかりなり後の月
『布鬼圃』
文政7年(1824年)5月、碩布は
「善光寺詣」
の旅に出立。
同年、
『春秋稿』(第八編)
。
桜井梅室
序。
文政9年(1826年)、
『布鬼圃』
。
文政12年(1829年)3月、毛呂山町川角の南蔵寺に芭蕉の句碑を建立。
大正3年、川角の
八幡神社
境内に移転。
八幡神社の芭蕉句碑
道傍のむくけは馬に喰はれけり
碩布は逸淵に春秋庵を譲る。
天保11年(1840年)、碩布は本庄駅の
安養院
で八十八の寿賀会を開く。判者5人の中に
逸淵
がいた。
天保13年(1842年)、
富処西馬
は高崎市の
清水寺
に芭蕉の句碑を建立。
観音の甍みやりつはなの雲
碑前手向
はせを忌のひとふしなれや花のかけ
碩布
『花の雲』
天保14年(1843年)11月9日、碩布没。
川村碩布門に山本坊 、細村青荷 、
野口有柳
、上州高崎の俳人
久米逸淵
、江戸の梅笠がいた。
山本坊は毛呂山町西戸の
国津神神社
に芭蕉の句碑を建立している。
安政2年(1855年)、碩布の十三回忌に
『碩布居士発句集』
(逸淵編)刊。
安政6年(1859年)3月、細村青荷は児玉の
八幡神社
に碩布の句碑を建立。
春の水ゆふ山はれて流れけり
青荷は碩布の庵号橿寮を継いだ。
碩布の母も俳諧を嗜み、俳号を其水といった。
其水の句
鷹飛て柘植に身を啼雀かな
『春秋稿』(第五編)
妹も俳人で、俳号を几秋といった。
蕉翁に
園女
あり、
鳥酔
に
星布
あり、几秋あれど其師おとりぬるぞくちをし。
几秋の句
つまにわかれし此秋を
むさし野に住かひもなやけふの月
『春秋稿』(第五編)
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