このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

川村碩布

「善光寺詣」


文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。

碩布75歳の時である。

横川の関 を越えて 坂本宿 に泊まっている。

坂本宿


 横川の関、横川の橋打越て坂本の駅に伏、夜ひとよ降明したる雨の花やかなる旭に引かへてそゝろめてたき旦也けり、

碓氷峠 を越える。

碓氷峠


 扨臼井の難所にかゝるに雨後の面を覆ひ、腰袋ゆり直すいとまもなくたとりたとり靄を踏てのほる

   ほとゝきす舞遊ふかと思ひけり

 老か突杖かひなくも蚋を拂うて軽井沢に膝を憩ふ

   近よりて見えぬ浅間の暑さ哉

小諸の魯恭を訪れた。

  小諸 なる魯恭が亭に労をわするゝ。

   庭鳥にふまるゝ水も泉かな

  布引山 円通閣

   三とせ経て折々さらす布引を

   けふたちそめていつかきて見ん   西上人

 この歌山家集にハ見え侍らす

 上田の樹下夏炉庵水翁を訪ふに、主のそふりよくよく見れハむかしの兀雨坊なり

   花橘一花つゝの名残なる

兀雨(ごつう)は上州岩本の人。別号夏爐庵。

天明8年(1788年)、兀雨は 白雄 の供をして武州毛呂の碩布亭を訪問。

天保5年(1834年)3月28日、80歳で没。

十六夜塚 を拝み、 虎杖庵 を訪れ、虎杖の墓に参る。

十六夜塚


虎杖庵


  坂木の宿 くねり過て漸雨紅か軒を見出しぬ、十六夜塚 を拝し姨捨山を栞に虎杖庵に着、先梨翁の墓に香をひねりて

   螢火も田に呼水も手向哉

 そもそもよし(善)光寺ハ布金(諷経カ)の霊場にして、龕前のしめやかなる事承るにまさりぬ、伝燈の光り鳧鐘の響きハさらなり、悲智兼運して雲霞の老若念珠をつまくり寂黙せさるハなし、されハ此国界をはなるゝ事今日にありや、九品蓮台の生、この国界にありや

   夏の夜のたゝたゝ深く成にけり

「善光寺詣」は 武曰 亭で終わっている。

 文政甲申の水無月矢立の墨尽て武曰か庵に筆を収む

六気老人碩布記

春秋庵梅笠の跋文がある。

梅笠は江戸の人。川村碩布門。四世春秋庵と称す。

文久3年(1863年)6月11日、没。59歳。

 可布庵のあるしハ我門のこのかミにして、歳すてニ古稀に近つくものから、ひとり流行の雅欲をすてゝもはら不易隠逸のおもひ止す、且ハ無常を観して后の世のいとなミニ心をこらす、されは今年亡師の遠芳忌にのそミて、さるへき法施あらんよりハむしろ居士か遺章を上木して、生前に因ミ深き門葉ハさら也、海内の詞友に披露せんこそ又なき作善ならめと、庵主か発起の操志ニ荷擔して、件のあらましを後序にしるし畢ぬ

春秋庵 梅笠

可布庵は 久米逸淵 の別号。

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