このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2007年
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釈尊寺
〜布引観音〜
小諸市大久保に布引観音がある。
布引山釈尊寺
「牛に引かれて
善光寺
参り」の伝説で知られる布引山釈尊寺は、神亀元年(724年)の創建と伝えられています。
天文17年(1548年)、武田信玄が楽厳寺入道、布下仁兵衛を攻めたときに兵火にかかって焼失したのを弘治2年(1556年)望月城主であった滋野左衛門佐が再建しました。その後も享保8年(1723年)に再び野火のために炎上しています。
現在ある伽藍の多くは、小諸城主牧野周防守康明によって再建されたものです。観音堂内にある「宮殿」は国の重要文化財に、また「白山社社殿」は県宝に指定されています。
中部北陸自然歩道
環境省 長野県
20分ほど、山道を登る。
半ばに山門(仁王門)がある。
寛政3年(1791年)4月16日、一茶は布引観音 に詣で、
上田
の蔦屋に泊る。
十六日 布引の観音に詣で、上田の蔦屋に泊。
『寛政三年紀行』
布引山釈尊寺
天台宗
の寺である。
行基菩薩
によって開かれたと伝えられる。
寛政8年(1796年)8月12日、生方雨什は布引山釈尊寺に参詣している。
十二日先
碓氷の坂
のさがしきをこえ、小諸の駅より千曲河柴橋のいぶせきを渡り、
西上人
三とせ住給ふと聞へし布引山救世ぼさつにぬかヅき、かしこを見るに、谷のはざまにして所セき也。後の山に登るよすがとて削なせるごとき巌に鉄のくさりを垂たり。
『ひとゝせ草』
観音堂が見える。
信濃三十三観音霊場
29番札所である。
文化7年(1810年)8月15日、兀雨は布引山 で月見の句会を催した。
布引の岩の白きを雨の月
江戸
兀雨
布引のぬの引さらせ雨の月
田中
指月
あいにくの雨の句会であった。
観音堂
正嘉2年(1258年)、宮殿
(くうでん)
建立。
国の重要文化財である。
西行
は布引山で歌を残しているようである。
布引山円通閣
三とせ経て折々さらす布引を
けふたちそめていつかきて見ん 西上人
この歌山家集にハ見え侍らす
川村碩布
「善光寺詣」
明治43年9月15日、
若山牧水
は布引観音を訪れたようだ。
千曲川の岸に俄かにそびえ立つた斷崖の山(多分古代噴火口のあとかも知れません)です、昔西行法師がこの寺に三年とか宿つてゐた相です、その時に咏んだ歌といふのを見せて貰ひましたが法師のものらしくありませんけれどいかにも山の深い法師の好み相なお寺です、
(尾上八郎宛繪葉書)
尾上八郎は尾上柴舟の本名。
眼下に千曲川が流れる。
名称 布引観世音
むかし、信心のうすい老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布を晒しておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。
老婆は驚いて、野を越え、山を越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気がついてみますと、善光寺の境内まで来ておりました。
老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、牛は金堂あたりで、突然姿を消してしまったのではありませんか。
驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。
日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまずいて、菩提心を起こし、一夜を金堂にこもって罪悪を詫び、家に帰ってまいりました。
ある日の事、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹き付けられているではありませんか。
老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが、断崖絶壁のことで取るすべもありません。
一心不乱に念じているうち、布と共に石と化してしまったと云うことです。
この布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。
布引観世音菩薩が、牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化をしたのだそうです。
この話は信濃四大伝説の一つとして、今に語り伝えられています。
小諸市
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