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小林一茶ゆかりの地


『寛政三年紀行』

 寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。29歳の時である。

 白き笠かぶ[るを生]涯のはれとし、竹の杖つくを一期のほまれとして、ことし寛政三年三月廿六[日]、江戸をうしろになして、おぼつかなくも立出る。小田の蛙は春しり顔に騒ぎ、木末の月は有明にかすみて、忽(たちまち)旅めくありさま也。

雉鳴[て梅に]乞食の世也けり

まっすぐ柏原に向かうわけではなく、その日は 馬橋 に泊まる。

 其日は馬橋□□□□□泊。

29日

馬橋から布川に向かう途中で 小金原 を通りがかる。

 廿九日、小金原にかゝる。此原は公の馬をやしなふ所にして、長さ四十里なるをもて、四十野といふ。草はあく迄青み、花も希々に咲て、乳を呑(のむ)駒有、水に望むあり、伏(ふす)有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ。

我孫子 を通り過ぎる。

 我孫彦の駅[と]いふを[過]れば、印旛沼といふぬま、松[陰]に見ユ。三月(やよひ)尽、

破鐘もけふばかりとてかすむ哉

  布川 馬泉亭に泊る。

 布川 馬泉亭に泊る。題をさぐる。

浦々の浪よけ椿咲にけり

 田川 曇柳斎に泊。

曇柳斎は 岩橋一白

4月2日

新川枕流亭に宿る。

 二日 新川枕流亭舎る。

青梅に手をかけて寝る蛙哉

 南道老人、みちのくへ行くといふに、

飛ぶことなかれ汲ことなかれ山清水

南道老人は下総竜台(現成田市)の人。 森田元夢 の門人。

5日

曇柳斎に戻る。

 五日 曇柳斎に戻。

 5日、小林一茶は 香取神宮 の御田植祭について書いている。

 けふは香取の御田植とて、此あたりの里々は、餅つき、酒をさゝげて祝ふ。抑(そもそも)此神は、民をやすく住せんとて、豊葦原を伐しづめ給ふ。いく千歳の今にいたりて、感応の月ひかりむなしからんや。

神風のはや吹給ふ稲葉哉

香取神宮


8日

行徳 で船に乗り、同行の女2人男2人と 中川船番所 を通りがかる。

 八日、晴 古郷へ足を向んといふに、道迄同行有。二人は女、二人は男也。行徳より舟に乗て、中川の関といふにかゝるに、防守、怒の眼おそろしく、婦人をにらみ返さんとす。是おほやけの掟ゆるがせにせざるはことわり也。又舟人いふやう、「藪の外より、そこそこのうちを通りて、かしこへ廻れ」といふ。とく教のまゝにすれば、直に関を過る事を得たり。誠に孟甞君が舌もからず、浦の男の知恵もたのまず。げにげに丸木をもて方なる器洗ふがごとく、隅み隅みの下闇を見逃(す)とは、ありがたき御代にぞありけ(る)。

(ばら)の花爰(ここ)をまたげと咲きにけり

中川船番所


10日

湯島聖堂 の前から本郷を通り、故郷に向かう。

 十日、晴 大聖殿の前より本郷にかゝる。是故郷へ行道の入口也。前途百万歩胸につかへて、とある木陰に休む。

湯島聖堂大成殿


蕨宿 に入る。

 戸田の渡りを越へ(え)て、わらび駅に入れば、薄々と日は暮れぬ。

蕨宿に泊まったようだ。

蕨本陣跡


11日

浦和宿 の入口にある 調神社 で句を詠んでいる。

 浦和の入口に月よみの宮あり。いさゝかの森なれど、いとよく茂りぬ。

わる眠い気を引立るわか葉哉

調神社


大宮で 氷川神社 を遙拝する。

 大宮といふ所に、むさしの国一の宮といふ大社有。松杉のおく十八丁とあれば、心ならずも遙拝して過る。此里は、家々のいたゞきにさまざまの草を植る。なんとなくいにしへめきて、さながら巣居(さうきよ)のありさまとも見ゆ。

かきつばた烟(けむり)かゝらぬ花もなし

氷川神社


熊谷(くまがい)宿 に泊まる。

 熊谷本町三浦玄正にやどる。

12日

熊谷寺 参詣。

 十二日 蓮生寺に参。是は次郎直実発心して造りし寺とかや。蓮生・敦盛並て墓の立るも又哀也。

陽炎やむつましげなるつかと塚

蓮生山熊谷寺


熊谷から 中瀬のわたり を越え、境町へ。

 熊谷を北に入て、東方村より中瀬のわたりを越へ(え)、境町の雪車といふ人を訪ふに、京へ行ぬとあれば、いせ崎の渡りをこす。日は薄々暮て、雨はしとしと降る。

時鳥我身ばかりに降雨か

 此辺にては、今降もしぐれといふ。

人に見し時雨をけふはあひにけり

「織間本陣跡」の碑


16日(5)

碓氷峠 を通りがかる。

 十六(五)日 碓井峠にかゝる。きのふの疲に急ぎもせぬ程に、はや太山(みやま)烏は夕を告て、雲を洩る日は渓にかたむく。「せなのがう(そ)でもさやにふ[ら]しつ」といふ万葉しふの姿も、けふ日の暮の景色に思ひ添へて、千歳のいにしへなつかしく、絶頂に有は国分仁王といふ。

碓氷峠


天明3年(1783年)の浅間山噴火について書いている。

 過し天明三年六月廿七日より、山はごろごろと鳴り、地はゆらゆらとうごきて、日をふれども止まず。 人々は薄き氷をふむに等しく、嵐の梢に住がごとく、世や減(滅)すらん、天[や落]ぬらんと、さらに活る心ちも□□、さればとて、退くべき所もなく、□□の朝日を希ひ、蜻蛉の夕[べを]待思ひして、最期の支度より外はなかりけり。 然るに、七月八日申の刻ばかりに、一烟怒ッて人にまとひ、猛火天を焦し、大石民屋に落て、身をうごかすにたよりなく、熱湯大河となりて、石は燃ながら流、其湯上野吾妻郡にあふれ入て、里々村々、神社仏閣も是がために亡び、比目連理ちとせのちぎりも、たゞ一時の淡(泡)と消え、朝夕神とあがめし主人も、累年杖と頼みし奴僕も、救ふによくなく、生ながら長の別れとなりぬ。 或は虚しき乳房にとりつき流るゝも有、あるは財布かゝへて溺も有。人に馬に皆利根川の藻屑と漂ふ。殺(刹)利も首陀(すだ)もかはらぬといふ奈落の底のありさま、目前に見んとは。稀々生残りて□□も、終に孤となりてかなしむ。今物がたりに聞てさへ□□□□□□□□□□、まして其時其身においてをや。

軽井沢に舎る。

浅間山


16日

布引観音 に詣で、 上田 の蔦屋に泊る。

 十六日 布引の観音に詣で、上田の蔦屋に泊。

18日

「丹波島の渡し」 が舟留めで、「小市の渡し」へ廻る。

 十八日 千曲川を渡らんとするに、水満々と杪(こずゑ)を浸して、空とひとつに渺々たり。

「きえていく日(か)の峰のしら雪」今も流るゝにや。舟留りたれば、小市といふ渡りへ廻。

五月雨や雪はいづこのしなの山

「千曲川」は「犀川」の誤り。

善光寺 参詣。

 善光寺に参る。堂額ことし修造有て、仏も寂光の月新にかゞやきを添へ、蓮(はちす)は花の盛を待て、九品の露[を]あらそふ。

善光寺


夕方、 郷里 に入る。

 灯をとる比(ころ)旧里に入。日比心にかけて来たる甲斐ありて、父母のすくやかなる顔を[見]ることのうれしく、めでたく、ありがたく、浮木にあへる亀のごとく、闇夜に見たる星にひとしく、あまりのよろこびにけされて、しばらくこと葉も出ざりけり。

門の木も先つゝがなし夕涼

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