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私の旅日記
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2006年
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湯島聖堂
〜相生坂(昌平坂)〜
JR総武線御茶ノ水駅東口を出て、聖橋を渡る。
相生坂を下る。
相生坂(昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある、そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客
文京区教育委員会
相生坂を下ると、
湯島聖堂(HP)
がある。
入口に文部省の「説明」が書いてあった。
寛永9年(1632年)、尾張藩主徳川義直林羅山をして上野忍ケ岡に先聖殿を造營せしめしに始まる。ひの回禄(火災)の災に罹るや、元禄3年(1630年)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政11年(1799年)大成殿及び・杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後舊
(もと)
にふくせり。
建造物は暫く東京博物館の一部に充てたりしが、大正12年(1923年)9月1日の
関東大震災
の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和10年(1935年)4月4日鐵筋混凝立
(コンクリート)
構造に依りて原型に復せり。
昭和11年3月
文部省
戦前の「説明」だけに、文語である。
仰高門
孔子像
入徳門
入徳門は震災も戦災を免れたようだ。
杏壇門
大成殿
健康太極拳をやっていた。
何だか日本ではないようだった。
大成殿に「斯文会」の説明が書いてあった。
湯島聖堂は将軍徳川綱吉が元禄3年(約300年前)に建立した孔子を祭る廟である。
江戸時代に3度火災に罹り、大正大震災にも灰燼に帰したが(但し入徳門を除く)、昭和10年舊時の規模によって復興し、今時大戦には幸に厄を免がれ、今日に及んだ。
孔子像(明末の朱舜水が
水戸光圀
の為に亡命の時携へて来て、後帝室御物となり、聖堂復興の時貸しされた。)の左右に四配(顔淵・曽子・子思・孟子)十哲(孔子の主な弟子十人)の神位がある。
江戸時代には昌平坂學問所(今の東京大學の前身)が併設されてゐた。
昭和50年3月 財団法人 斯文会
元禄11年(1698年)、
岩田涼莵
は湯島聖堂を訪れているようである。
大成殿
聖堂の庭に詩人や今日の月
『皮籠摺』
寛政3年(1791年)4月10日、小林一茶は湯島聖堂の前から本郷を通り、故郷に向かう。
十日、晴 大聖殿の前より本郷にかゝる。是故郷へ行道の入口也。前途百万歩胸につかへて、とある木陰に休む。
戸田の渡り
を越へて、
わらび駅
に入れば、薄々と日は暮れぬ。
『寛政三年紀行』
寛政6年(1794年)、
太田南畝
は湯島聖堂の学問吟味に合格。
明治31年(1898年)、
正岡子規
は湯島聖堂を句に詠んでいる。
聖堂やひつそりとして鷦鷯
『俳句稿』
鷦鷯
(みそさざい)
は冬の季語。
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