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私の旅日記
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2008年
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蕨本陣跡
〜小林一茶〜
国道17号は中山道。
蕨市の国道17号の東に旧
中山道
がある。
中山道蕨宿
蕨宿は
板橋
宿の次の宿駅。
蕨本陣跡があった。
蕨市指定文化財
蕨本陣跡
蕨宿は江戸時代に中山道第2の宿駅として栄えたところである。
慶長11年(1606年)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられている。
その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。
蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが、公家大名などが休泊し、文久3年(1868年)には明治天皇の大宮
氷川神社
御親拝の際の御小休所となった。
現在、岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。
撰文 大野 晋
蕨市教育委員会
蕨本陣跡の隣に蕨市立歴史民族資料館がある。
武蔵国塚越(現蕨市)に俳人梅富がいた。
元文4年(1739年)、
白兎園宗瑞
と
白井鳥酔
が梅富を訪れている。
梅富の句
掛て置く十二一重や松に蔦
『
俳諧
冬野あそび』
延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸を下る。蕨宿で昼餉、
上尾
に泊まる。
蕨といへる所に、とばかり昼げとゝのへて出つ。
我とむる手もなき夏のわらび哉
此夜上尾に泊る。
『岐岨路紀行』
岡田本陣家の当主岡田正義は肯三亭和風と号し、
白寿坊
と親交が深かった。白寿坊は蕨に来るたびに同家に泊まり、句会を催している。
寛政3年(1791年)4月10日、
小林一茶
は郷里の柏原に帰る途中で
戸田の渡し
を越え、蕨宿に入る。
戸田の渡りを越へて、わらび駅に入れば、薄々と日は暮れぬ。
『寛政三年紀行』
蕨宿に泊まったようだ。
寛政5年(1793年)9月5日、
田上菊舎
は蕨宿本陣の肯三亭に泊まる。
東都にさらぬゆかりの人々、いかゞわたらせ玉ふらしと、長の旅路をあんじあんじ、わらび駅なる肯三亭に御たより落つく。きけば恙なきとのもの語りの上、是非に今宵ととめられ、是をよろこび興じて
月の軒や訪ひそめに先づ心張れ
見舞いしはせぬ露の侘笠 和風
『美濃・信濃行』
和風の句
紅梅や雫はちつてもとの色
『鷹の石ふみ』
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は江戸を前にして蕨宿に泊まる。
中山道蕨宿岸本弥三郎支配所といへる榜示あり。右に法花寺あり。今宵は蔦屋庄左衛門といへる宿にやどれり。あすは故郷にかへるまうけとて、従者も髪ゆひ頂そりなどしてさはぎあへるに、御代官岸本氏に属せるもの
手附須永軍次郎
来りて、あすは紀の国のかうのとの明六時に邸中を出させ給ひ、四時すぐる比は此駅を通らせ給ふべしといふにぞ。
『壬戌紀行』
天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、蕨宿を通っている。
蕨駅
北根岸、白旗
(幡)
、岸、一里半
此辺有
レ
坂、やき米を売をもて名あり。
「毛武游記」
嘉永6年(1853年)5月23日、吉田松陰は江戸に行く途中、
鴻巣
から蕨に泊まる。
桶川・上尾・大宮・浦和を經て、蕨に宿す。行程十二里。經し所は皆足立郡に屬す。其の大里郡に屬するは熊谷の一驛のみ。
『癸丑遊歴日録』
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