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私の旅日記
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2006年
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氷川神社
〜須佐之男命〜
JR宇都宮線さいたま新都心駅を出る。
旧中山道に氷川神社一の鳥居がある。
是より宮まで18丁
大宮駅の中(この所を氷川戸庄高鼻村といふ。)街道の右の方に鳥居・立石あり。これより十八町入りて御本社なり。神領三百石、神主角田氏・岩井氏これを奉祀す。祭神三座、本社の右は素盞雄尊(男体の宮と称す。奥の社ともいふ。)同じく左は奇稲田媛尊(女体の宮と称す。これも奥の社と唱ふ。)本宮は大己貴尊を斎ひ奉る。(簸王子宮と称す。)これ即ち武蔵国第一宮にして、
延喜式
明神大社、大月嘗新嘗に列する第一の官社たる所なり。
『江戸名所図会』
(大宮氷川神社)
寛政3年(1791年)4月11日、
一茶
は氷川神社を遙拝している。
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は氷川神社一の鳥居の前を通るが、氷川神社には立ち寄らなかった。
左のかたに、武蔵国一宮是より二町大門鳥居へ出ると書し札たてり。ゆきて見まほしけれど、大宮の駅に入らざれば夫馬をかふるわづらひあり。力なくて見過しぬ。大宮の駅舎も又ひなびたり。商人すくなし。一膳飯などかける札所々にあり。左のかたに石表あり。左武蔵国大宮氷川大明神本地正観音とゑれり。これ大門あ
(な)
るべし。これより十八町ありといふ。
『壬戌紀行』
天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、氷川神社のことを書いている。
大宮八幡のやしろ、是、武州一の宮、神は氷川大明神、松のはやし道をつゝみて、天もわかたぬほど黒うしげり、宮居迄凡十八町あなるとぞ。
「毛武游記」
参道の欅
参道半ば近くに大門町3丁目がある。
太宰治
は昭和23年4月29日から同年5月12日まで大門町3丁目に『人間失格』の「第三の手記」後半と「あとがき」を執筆した。
太宰は3月熱海の
起雲閣
に滞在して『人間失格』の「第二の手記」まで書き、4月三鷹の仕事部屋で「第三の手記」前半を書いた。
同年6月13日、太宰治は山崎富栄と玉川上水で入水心中。
氷川神社楼門
氷川神社は武蔵國
一宮
。
ちなみに武蔵国二の宮とも称されたのは埼玉県児玉郡神川町の
金讃神社
。
「大宮」の地名は氷川神社に由来する。
氷川神社社殿
祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。
須佐之男命
(すさのおのみこと)
は天照大神
(あまてらすおおかみ)
の弟。稲田姫命は出雲国の脚摩乳
(あしなずち)
・手摩乳
(てなずち)
の娘。八岐大蛇
(やまたのおろち)
の生け贄になるところを須佐之男命
(すさのおのみこと)
に救われ、その妻となる。 大己貴命は須佐之男命
(すさのおのみこと)
の8代目の子孫大国主神
(おほくにぬしのかみ)
のこと。
景行天皇のとき、
日本武尊
が東征のおり当地に足をとめて祈願されたそうだ。
昭和16年(1941年)12月8日、
水原秋桜子
は氷川神社で戦勝祈願の参拝をしている。
戦勝祈願
昭和十六年十二月八日、文芸銃後講演のために大宮
市に赴く。氷川神社の社頭には戦勝祈願の市民織る
が如し。会終りて我も金子伊昔紅と共に参拝す。
ふけてより照りわたりけり冬の月
冬杉に月照り武藏一の宮
杉を洩る月に参道の霜ひかる
冬の月照りつゝ霧の宮居なる
冬霧にぬれてぞ祈る勝たせたまへ
『磐梯』
「私の旅日記」
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