このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2006年

氷川鍬神社〜旧中山道〜

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JR高崎線上尾駅東口を出る。


駅前の通りが旧中山道である。

氷川鍬神社


寛永9年(1632年)、鍬大神宮創立。

 明治41年(1908年)、鍬大神宮に二ツ宮氷川神社の女体社を合祀して氷川鍬神社となった。

合祀前の氷川神社は上尾宿・上尾下・上尾村の総鎮守だったそうだ。

祭神は豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)

 豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)の「鍬」は「すき」と読むのが正しいのではないだろうか。

稲田姫命(いなだひめのみこと)は須佐之男命(すさのおのみこと)の后。

神楽殿の脇に 芭蕉の句碑 があった。


旅人登我名呼れ無者津時雨

鍬大神宮は「上尾宿総鎮守」と書いてあった。

上尾宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて5番目の宿場。

木曽街道上尾宿 加茂之社(英泉)


中山道上尾宿と本陣

 上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603年)伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅には、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。

 また、各宿に本陣、脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀の前田家をはじめ34家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅篭屋は、41軒でした。

 上尾宿は中山道の中では比較的小さな宿場だったようだが、本陣は中山道の宿場中塩尻宿に次ぐ大きな宿泊設備を整えていた。「中山道宿村大概帳」によると、上尾宿の本陣は建坪が351坪となっているそうだ。

 ちなみに 追分宿本陣 は建坪は238坪、大宮の本陣が190坪、桶川の本陣が207坪余だそうだ。

 鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あった。鍬大神宮のすぐ南にもう1軒の脇本陣があり、上尾宿には本陣が1軒(林八郎右衛門)、脇本陣が3軒(本陣の両側が白石長左衛門、井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)あったそうだ。

 延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸を下る。 蕨宿 で昼餉、上尾に泊まる。

  といへる所に、とばかり昼げとゝのへて出つ。

   我とむる手もなき夏のわらび哉

 此夜上尾に泊る。


小林一茶 は江戸と柏原の往復で4回上尾宿に泊まっている。

 天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、上尾で日が暮れた。

 上尾この道いと遠して日暮たり。万に我やどかるかたまで来てひとよを語あかさばやと申せしかど、いとつかれにつかれたれバとて、此駅にやどかる。


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