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私の旅日記
〜
2005年
〜
善光寺
〜小林一茶〜
信濃町柏原
から
戸倉上山田温泉
に行く途中、長野の善光寺に行ってみた。
長野駅から善光寺まで参道を歩く。
参道には1丁(約109m)ごとに石碑が建っている。
建久8年(1197年)、
源頼朝
が善光寺を参詣した時、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという。その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができるそうだ。
善光寺仁王門
宝暦2年(1752年)、仁王門創建。
弘化4年(1847年)、善光寺地震で焼失。
慶応元年(1865年)、再建。
明治24年(1891年)6月2日、再び焼失。
現在の仁王門は大正7年3月30日建立のもの。
三門は保存修理工事中。
善光寺本堂
善光寺は皇極天皇元年(642年)の創建と伝えている。
仏教が宗派に分かれる以前の寺院で、無宗派。
治承3年(1179年)の炎上を始め十数回の火災に遭い、現本堂は宝永4年(1707年)落成したもの。
善光寺本堂に安置される御本尊一光三尊阿弥陀如来は白雉5年(654年)以来の秘仏。鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られ、拝されるようになった。前立本尊は普段御宝庫に安置されていて、7年に1度の御開帳の時だけ、特別に拝むことができる。
信濃三十三観音
特別霊場である。
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、善光寺へ。
○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠
丹波島
。
川中島
に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。先珠數とりて。其名も高き佛日の善光
(よきひかり)
ある御寺の境内繁々たる。
『日本行脚文集』(巻之六)
貞亨5年(1688年)8月16日、芭蕉は
姥捨山
から善光寺を参拝。
坂城
、小諸、
軽井沢
を経て、下旬、江戸に帰る。
善光寺
月影や四門四宗も只ひとつ
『更科紀行』
寛延3年(1750年)、布袋庵柳几は善光寺に参詣。『草津紀行』
信州善光寺にて
蓮の実や爰を飛事遠からす
『布袋庵句集』
宝暦5年(1755年)6月、南嶺庵梅至は善光寺で句を詠んでいる。
善光寺
罪科も汗拭ふ跡や丸佛
『奥羽の日記』
宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、善光寺に泊まっている。
幸
(犀)
川をこして、善光寺なる元水の坊に尋まかでけるに、はや四年むかしの人と成りて、其弟子に水音といへる法師の、なにくれと心づかひなど侍りけるに、此比のこうじぬるをやすめぬ。
『松しま道の記』
宝暦13年(1763年)4月14日、二日坊は善光寺に詣で、句を詠んでいる。
筑广川、犀川ともに手繰舟にて、猿の木つとふ姿にも見るへく、善光寺に詣て、父母に逢ひ奉る心す也
御仏にひかるゝ旅や木下闇
坊
紫の雲とやうつる水葵
凌
戒壇まわりといふこと、死出の思ひを観せよと也
『みち奥日記』
明和7年(1770年)、高桑闌更は善光寺に参詣している。
善光寺
よごれたる我にも法の光りかな
『半化坊発句集』
明和8年(1771年)8月20日、諸九尼は
川中島
を経て善光寺へ。
さて善光寺に着ぬ。此ころまで、命もあやう
(ふ)
き程なりしに、ともかくも成な
バ
、くらきより闇きにたどりつべきをひとへに仏の御しるべにやと、かたじけなさ、いひつくすべうもなし。御堂の下、はるかにふかくくらき所を、念仏しめぐる。六道めぐりと申よし、うき世の事わざ、ミなわすれて信おこりぬ。
『秋風記』
安永3年(1774年)1月7日、
加舎白雄
は善光寺へ参り、句を詠んでいる。
正月七日也けり、群衆の人に交りて善光寺へまいりぬ、
ありがたや三児も雪をふみきやす
常世田長翠
も善光寺に詣で、句を詠んでいる。
善光寺に詣て
春の山こゝ曙の都かな
椿海老漁 長翠
安永9年(1780年)3月19日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、善光寺を訪れ宿坊に2泊している。
戒壇めぐりすとて、同行を伴ひて如来のおはする壇の下を右遶
(ウネウ)
す。もとよりめざすもしらぬもいと暗き所にて、先へ行人の念仏する声をたよりにたどるに、世の中のあらゆる見る事聞ことの心をみだす事あらず、もはら心を一ッにして仏たのみ奉る声の、男女と声はかわれども、その人は見ず、聞およぶ六道の辻といふ処に死してさまよひ行と聞し、身にしみて覚ふ。
『東遊紀行』
天明3年(1783年)、加藤暁台は善光寺の十夜に参拝したようだ。
御堂 の十夜にまゐりあひて、又あひがたき法燈のかげにかゞまり、通夜の人々とゝもに念じつ。こよひ此みあかしに別れ奉らん事、名残をしう唯心細う覚て。
十方十夜御仏の前去がたき
『暁台句集』
天明4年(1784年)7月24日、
菅江真澄
は善光寺に参詣した。
廿四日 御堂にまうてぬ。ここは水内郡柳原庄芋井郷。善光寺は天智天皇三年甲子に建て、本堂に四の名あり、定額山善光寺、南命山無量寿寺、不捨山浄土寺、北空山雲上寺也。しはしくまくまをかみめくれは、來迎の松といふあり。ここに刈萱道心の庵して、むらさきの雲のむかへをまたれしといひ、かるかや堂は、石堂丸すけして、をこなへる處といふ。
『來目路乃橋』
寛政3年(1791年)3月26日、
小林一茶
は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。4月18日、郷里に入る前に善光寺を参詣する。
善光寺に参る。堂額ことし修造有て、仏も寂光の月新にかゞやきを添へ、蓮
(はちす)
は花の盛を待て、九品の露[を]あらそふ。
『寛政三年紀行』
以後、一茶は何度も善光寺を訪れ、善光寺にちなんだ句を50句以上も残しているそうだ。
本堂の東に
小林一茶の句碑
がある。
寛政3年(1791年)4月29日、鶴田卓池は善光寺を訪れている。
○二十九日 善光寺 高サ十丈二重屋根
表十五間奥行二十五間アリ
山門仁王門経堂 知行千石
四門東定額山善光寺南南命山無量寿寺
西不捨山浄土寺北北空山雲上寺
大本願比丘尼上人也別当大寛寺
一山天台四十六坊有
翁の吟
月影や四門四宗も只ひとつ
『奥羽紀行』
寛政5年(1793年)8月25日、
田上菊舎
は
姨捨山
、26日、善光寺に参詣。
二十六日、善光寺へ詣ふで、只有難さ身にあまりて
袖の露に光る大悲や寺の月
『美濃・信濃行』
寛政8年(1796年)8月17日、生方雨什は善光寺に参詣、句を詠んでいる。
十七日朝まだき、御堂 に詣けるに遠近の人むれ居て声もおしまず仏の御名を唱ふ。ともし立并べたるにこがねちりばめしミまへのかざりかゞやきてずしやかなるに、鉦打ならし今や戸張かゝぐるにぞ。ミな筵に額をあてゝあまたゝび拝ミ奉るも尊し。
御戸張の光身にしむ旦
(あした)
哉
『ひとゝせ草』
寛政9年(1797年)3月、
常世田長翠
は
戸谷双烏
、亀田几外と善光寺詣でをする。
朝心木草になれと願ひけり
長翠
春草の露にまぎるゝなミだかな
几外
日に月に花の朝鐘満るかな
双烏
寛政9年(1797年)秋、鶴田卓池は信濃行脚で再び善光寺を訪れている。
善光寺
秋の夜は何につけても月よかな
享和元年(1801年)3月28日、
井上士朗
は門人松兄・
卓池
を伴い江戸から帰る途中で善光寺を訪れた。
旅立日は二月廿八日也。行程二百里。半時仏前に坐する事なし。けふ又三月廿八日なり。善光寺 の如来前に通夜して仏恩を報ず。吾祖はこゝに百日の歩みをはこび給ふとぞ。けふ祖師の忌日に逢ふて晨朝一時の御経を聞こと、是また不思議の宿善なり。
朝がすみ二重ひらかせ給ひけり
松兄
月仏信のへ華のころに来て
卓池
『鶴芝』
文化2年(1805年)8月、
川村碩布
は善光寺を訪れて句を詠んでいる。
善光寺
ひる中を小鳥のさはぐ御堂かな
『穂屋祭紀行』
文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。
そもそもよし
(善)
光寺ハ布金
(諷経カ)
の霊場にして、龕前のしめやかなる事承るにまさりぬ、伝燈の光り鳧鐘の響きハさらなり、悲智兼運して雲霞の老若念珠をつまくり寂黙せさるハなし、されハ此国界をはなるゝ事今日にありや、九品蓮台の生、この国界にありや
夏の夜のたゝたゝ深く成にけり
『善光寺詣』
しなの鉄道
戸倉駅
へ。
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