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芭蕉の句碑


おもかげや姨ひとりなく月の友

 『大和物語』(第156段)に「我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」とある。

戸倉上山田温泉に行く途中、地図を見ていると、姨捨山があった。


  戸倉上山田温泉 から県道77号長野上田線で山田温泉に向かうと、姨捨駅の標識がある。

姨捨駅に行けば姨捨山のことが分かるだろうと思って、行ってみる。


途中、さらしなの里に立ち寄る。


姨捨山の写真を撮る。


西行 は姨捨山を歌に詠んでいる。

隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき

姨捨山に間違いないと思うが、聞いてみる人もいない。

 貞亨3年(1686年)4月、大淀三千風は善光寺から姨捨山の麓を通り、句を詠んでいる。

○卯月四日荒鞍山。園原山を過。又善光寺の如来にいとま乞して。苅萱寺を拜し。義仲の古城兼平が領地。伏屋の里。更科山の陰を通りがてら。

○姨捨し山の訴人か子規


姨捨駅 は無人駅だった。

姨捨駅の「更埴市ご案内」を見ると、名勝指定地「名月の里」とある。

 名勝指定地「名月の里」行ってみると、「名勝指定地説明板(長楽寺地区)」があった。

 名称は姨捨(田毎の月)。「姨捨(田毎の月)は、聖山高原を背に善光寺平を一望する標高460mから560mまでに至る面積約25haの景勝地にある棚田である。」と書いてある。

「日本の棚田100選」に認定されたそうだ。

雪に埋もれた石段を登る。


 岩山の上から姨捨の月を見るのだろう。姨捨の月は、大覚寺の大沢の池・ 石山寺 の秋の月に並んで日本三大名月と言われた。

岩山の下に長楽寺がある。

信濃三十三観音霊場 14番札所である。

もと 武水別神社 の別当寺。

 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は名古屋を出発して 『更科紀行』 の旅に出る。

 更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。

「越人」は芭蕉十哲の一人、 越智越人 のこと。

越智越人随行塚


昭和11年(1936年)秋、建立。無名庵霞遊揮毫。

 昭和11年(1936年)秋、畔上悟友は義仲寺の無名庵主であった小野霞遊を招いて大観月会を開催した。

大津市の 芭蕉会館 にある「芭蕉道統歴代句碑」に霞遊の句が刻まれている。

十六世   湧く風に要ゆるがぬ扇かな

8月15日、芭蕉は姨捨山の月を見て句を詠んだ。

翌16日、 善光寺 参拝。 坂城 、小諸、 軽井沢 を経て、下旬、江戸に帰る。

 延享3年(1746年)5月、鳥酔は姨捨山に登る。

○登姨捨山

姨石のかたはらに草を敷てしばしば見やれは植さかる田毎の早乙女は鏡臺山にむかひ合かたちを作り代かく馬はさらしな川の流に洗ふ

   おはすてや伯父は田毎の苗くはり


 宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、姨捨山を訪ねている。

こゝの庄司官何某は、さる風流のしれものと聞て立より、姨捨山の道の事など尋るに、やがて老たる男に命じて道のしるべさせけり。姨石の陰に一宇の草堂建り。一重・二重・冠・有明などいふ山、前後にめぐり、更科・筑摩の流れ帯のごとく、そこら幾らとなき山田のならべるにうつるをぞ、「田毎の月」とはいふなりと。あはれ爰に日を暮さまほし。

   なわしろや田毎にのこる足の跡


 宝暦13年(1763年)4月16日、二日坊は姨捨山で句を詠んでいる。

姨捨山 の観音堂に十三景を詠む。

雨さへ

降りて、殊に古今の哀を催す

姥石に啼て声のあり雨蛙
   坊

捨られた姥もかえたか苔衣
   凌


芭蕉翁面影塚


おもかげや姨ひとりなく月の友

明和六秋八月望」とある。

加舎白雄 は東・北信各地を巡り、姨捨芭蕉句碑の建立に奔走。

明和6年(1769年)8月15日、長楽寺の入口に芭蕉句碑が建立された。

姨捨最初の句碑だそうだ。

芭蕉が姥捨山を訪れてから81年後である。

 芭蕉翁面影塚は、松島の「松島やああ松島や松島や」、鹿島の「 月はやし梢は雨を待ちながら 」と共に「日本三塚」のひとつとというが、「松島やああ松島や松島や」の句碑は知らない。

 さて、月は言うまでもなく東から昇る。姨捨山は長楽寺の南にある。月が姨捨山を照らすのは真夜中である。芭蕉は本当に長楽寺から姨捨山の月を見たのだろうか。

 安永9年(1780年)3月19日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、姨捨山を訪ねている。

 十九日、けふは月の名所見るべきに、「空いかゞ」とねんじたりしに、いとよく晴ぬ。猿馬場より更科山に分登る。姨石の上に登りつ。地蔵堂に下り居つ眺望するに、こゝかしこの尾上・谷陰に花の咲ほころび、雉子・鶯のもろ声なる、月すみ渡る秋の夜も思ひかけず。

   よしや今姨すつるとも春の山


 天明2年(1782年)6月11日、 田上菊舎 は姨捨山に登った。

   姨捨山にて、花には花笠の面影を尽し、
   月には竹笠の侘姿も亦おかし。善光寺
   を拝せしより、此更科の月にひかれてわけ
   登るも唯ひとり。比は水無月中のひと日、
   入相聞る時なれば、いでそや月を眺めんと、
   其まゝ山に仮寝して

姨石をちからに更て月すゞし


 天明3年(1783年)8月15日、 菅江真澄 は姨捨山を訪れている。

さればにや其むかし捨られし伯母にたぐえてけん、祖母石、姪石、小袋(※「代」+「巾」)石、甥石など侍ると、あないもほゝゑみてをしへたり。

『わがこころ』

中村伯先は姨捨山に登り、「俤塚」を見ている。

俤塚 を拝し、長楽寺に入て捻香稽首しおはりて、姨石に蹴攀して十三景を眺望す。程なく 虎杖庵 をはじめとして許多の好人来り謁す。


 寛政3年(1791年)4月28日、 鶴田卓池 は長楽寺を訪れ、芭蕉の句碑を見ている。

   碑有   俤や姨ひとり泣月の友   翁

壱り稲荷山 三里 丹波嶋  犀川丹波川トモ云

『奥羽記行』 (自筆稿本)

 寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没す。 常世田長翠 は春秋庵を継承。姥捨山を句に詠んでいる。

   姨山

 童のこよひのさらしなや西上人
 旅寝をしたひまさに祖翁の
 面かけをかなしふ

人かはり月をすかたの秋の山


 寛政5年(1793年)8月25日、 田上菊舎 は再び姨捨山へ。26日、 善光寺 に参詣。

指を折れば、天明二の昔、姨捨山上に旅寝せし頃、風雨の難をたすけられし、傳五郎といへる老の夫婦へ、折からの情を謝せんと、自画賛一葉おくるとて

   捨てぬおばへよはひみせうぞ岩に菊

   すむや心さらしな郡秋三月

『美濃・信濃行』

 寛政8年(1796年)8月、生方雨什は「芭蕉翁面影塚」を見ている。

  柳居 先師のすさミを思ひ合せたり。折しもうしろに人あり。とへば「戸倉なる 虎杖庵 とゝもにおなじ所の月見んと契り置しが、おそなハりぬればこミちして行也。いざせ給へ」とたのもしげなるに、いざなふ老のあゆみたどたどしく、はるかにへだゝりしをほのよぶ声したひしたひて鳥の塒求るとき、山口に向へば芭蕉翁の碑 、

   俤や姨ひとり泣月の友

 先の松露庵 烏明 社中いとなミたてゝ深魚の筆。根芝に頭をたれて道の栄へをねぎにける。


 寛政12年(1800年)8月、 宮本虎杖 らは 加舎白雄の句碑 を姨捨長楽寺に建てた。



姨捨や月をむかしのかがみなる

後日撮った写真である。

芭蕉翁面影塚に次いで、長楽寺に建てられた2番目の句碑。

 享和元年(1801年)3月18日、 鶴田卓池井上士朗 に随行して江戸を立ち信州へ旅をする。

  姨捨山

桂木のものおもはする芽出哉


 文化6年(1809年)8月15日、 小林一茶 は姨捨山に登る。

 久しく願ひけるに、北国日和定めなくて、おもひはたさざるに、今年文化六年八月十五日、同行二人姨捨山に登る事を得たり。

けふといふ今日名月の御側かな


芭蕉が訪れてから121年後。

一茶は芭蕉や白雄の句碑を見ているはずだ。

 文化11年(1814年)4月28日、 伊能忠敬 は姨捨の長楽寺に立ち寄って、芭蕉の句碑を見ている。

月見堂登口芭蕉塚 大もかげや姨ひとりなく月の友

 文化14年(1817年)8月15日、 中村碓嶺虎杖庵 を訪れ、姨捨山 で観月。 『さらしな記行』

 天保3年(1832年)、 小林葛古 は長楽寺を訪れ、句碑を見ているようである。

観音堂別当法(ママ)光院長楽寺とて月を賞すべきには可然(しかるべき)堂内なり。なれどもあまり立派にて「なぐさめかねし」とある古歌の本意には背けり。をしいかな。

あひにあひぬをば捨山に秋の月
 宗祇

俤や姨ひとり泣月の友
 ばせを

姨捨や月をむかしの鏡ミなる
 白雄

姨捨の山の月かげあはれさにうしろにおひてかへる迄見む
 四方歌垣

『五智まうで』

 長楽寺を下っていくと、今度は「名勝指定地説明板(四十八枚田地区)」があった。

 「四十八枚田は、姨捨の棚田の中でもっとも早く成立したとされ、『田毎の月』という呼び名も、もともと四十八枚田に映った月を指すといわれます。」と書いてある。

 明治19年(1886年)、 野口有柳 は素竹と姨捨に遊ぶ。

 大正15年(1926年)9月25日、 荻原井泉水 は「『更科紀行』の跡」を訪ね、「田毎の月」のことを書いている。

姨捨の月を田毎の月とも称するのは、このだんだんの田の一つ一つに月が映るのを賞したものだという。尤も、名月の頃には田に稲があるが、昔は殊更に刈取って、水をたたえて月を映したものだそうな、当地は八幡神宮寺別当の所轄で、年貢などは念頭におかなかったためであろうとの住職の話だけれども、それが事実ならば、ずい分不生産的なことをした訳である。

『随筆芭蕉』 (姨捨山に来て)

 昭和12年(1937年)9月8日、 与謝野晶子 は戸倉上山田温泉に泊まり、翌9日に長楽寺を訪れている。

更科の田毎の月を千曲川あはせて流るたとへて云へば

『白桜集』(千曲川)

 昭和42年(1967年)、 山口誓子 は姨捨を訪れている。

   姨 捨

姨捨へせり上り來し青棚田

『一隅』

山田温泉 へ。

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