このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 書

『更科紀行』


 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は姥捨の月を見ようと 越人 を伴い美濃の国を発つ。芭蕉45歳の時である。

越智越人随行塚


 さらしなの里、姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。

中山道鵜沼宿 が「更科紀行首途之地」とされる。


更科紀行首途之地

おくられつ送りつ果ハ木曽の秋

荷兮・野水は餞別の句を贈っている。

   さらしなに行人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり
   荷兮

   越人旅立けるよし聞て京より申つかはす

月に行脇差つめよ馬のうへ
   野水

『阿羅野』 (荷兮編)

四十八曲峠を下り、善光寺街道八幡宿へ。

武水別神社


  桟はし寝覚 など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。

あの中に蒔絵書たし宿の月

桟やいのちをからむつたかづら

桟やまづおもひいづ駒むかへ

霧晴れて桟はめもふさがれず
   越人

八幡宿から姨捨山へ。

姨捨山


 山は八幡という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。

「更科姥捨月之弁」

   姨捨山

俤や姨ひとり泣月の友

長楽寺 に芭蕉翁面影塚がある。


16日、坂城に泊まる。

いざよひもまだ更科の郡かな

苅屋原ミニパーク に句碑がある。


更科や三よさの月見雲もなし
   越人

ひよろひよろと猶露けしやをみなへし

身にしみて大根からし秋の風



木曾の橡うき世の人の土産かな

送られつ別れつ果は木曾の秋

16日、 善光寺 参拝。

善光寺


   善光寺

月影や四門四宗も只ひとつ

軽井沢 へ。

吹飛す石は浅間の野分哉

浅間神社 に句碑がある。


ふきとばす石も浅間の野分かな

8月下旬、江戸に帰る。

9月13日、芭蕉庵で後の月見の宴。

木曾の痩もまだなを(ほ)らぬに後の月
ばせを(う)


 去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆへ、却而御無さたに成行候。折々同姓方へ御音信被下候よしにて、申伝へこし候。さてさて御なつかしく候。去秋は越人といふしれもの木曽路を伴ひ、桟のあやうきいのち、姨捨のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追すたか、あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出候。とし明ても猶旅の心ちやまず、

元日は田毎の月こそ恋しけれ
はせを

「猿雖宛書簡」

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