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俳 書

『笈日記』(支考編)


元禄8年(1695年)7月15日、自序。芭蕉の句を164句収録。

各務支考 は美濃の国出身。別号、獅子庵・東華坊・西華坊など。

芭蕉没後、芭蕉の足跡を巡遊。

たゞに旧遊の地をたづねて、その時のありさまを思ひあはせ、一夜二夜にちぎり捨し所々も、その面影をうつし出し侍るに、おほむね十ところ十部ばかりも侍らむ。 その外、奥羽の風流は 奥の細道 にみづからかきて、洛の 去来 に残し侍り、潜淵庵が 『継尾集』 にもこもごも出し侍るかし。越路の遺草は 『ありそ海・となみ山』 の二興にとゞめられて、ちか比にもてなし侍れば、その間にもらしぬるもの、わづかに百余草に過ざらまし。是に病前死後の両篇をくはえ(へ)て、前後日記ともいひ、笈日記とも申侍る也。

笈日記 上巻

伊賀部

貞享五年の春、何月幾日芭蕉老人よし野山の桜見むとて、伊賀の国より旅立申されしに、尾の 杜国 も是に供せられて、ともに筆をとつて、檜の木笠の裏に狂ぜしと也。

   乾坤 無住

芳野にてさくら見せふぞ檜の木笠
   風羅坊

よしのにておれも見せうぞひの木がさ
   万菊丸

   おなじ年の春にや侍らむ。故主君蝉吟公の庭
   前にて

さまざまの事おもひ出す桜かな
   芭蕉

   そのとし阿波といふ所の大仏に詣して


丈六のかげろふ高し石の上
   仝

   紀 行

 さやの舟まはり[せ]しに、有明の月入はてゝ、みのぢ、あふみ路の山々雪降かゝりていとお(を)かしきに、おそろしく髭生たるものゝふの下部などいふものゝ、やゝもすれば折々舟人をねめいかるぞ、興うしなふ心地せらる。桑名より処々馬に乗て、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて、馬より落ぬ。ものゝ便なきひとり旅さへあるを、「まさなの乗てや」と、馬子にはしかられながら、

    かちならば杖つき坂を落馬哉

といひけれども、季の言葉なし。雑の句といはんもあしからじ。

ばせを

   そのゝちいがの人々に此句の脇してみるべき
   よし申されしを

角のとがらぬ牛もあるもの
    土芳

去年元禄七年、後のさみだれに、武江より旧里にわたりて、洛の桃花坊にあそび、湖の 木そ塚 に納涼して、文月のはじめ、ふたゝび伊賀に帰て、したしき人々の魂など祭りて、九月の始又難波津の方に旅だつ。この秋此別ありとしらば、たのむべく、なすべき事もおほかるべきに。

七月十五日

家はみな杖にしら髪の墓ま(ゐ)
   翁

八月十五日

今宵誰よし野の月も十六里

名月の佳章は三句侍りけるに、外の二章は評をくはへて 『続猿蓑』 に入集す。爰には記し侍らず。今宵の前後にや有けむ、 猿雖 亭にあそぶとて

あれあれて末は海行野分哉
   猿雖

 鶴の頭をあぐる栗の穂
   翁

九月二日

支考はいせの国より斗従をいざなひて、伊賀の山中におもむく。是は難波津の抖ソウ(※「ソウ」は手偏に「數」)の後、かならず伊勢にもむかえむと也。三日の夜かしこにいたる。草庵のも(ま)うけもいとゞこゝろさびて

「抖ソウ」は行脚のこと。

蕎麦はまだ花でもてなす山路哉
   翁

松茸やしらぬ木の葉のへばり付く
   仝

この松茸をその夜の巻頭に乞うけて、哥仙侍り。爰に記さず。次の夜なにがしか亭に会して

松茸や宮古にちかき山の形
    維然

松風に新酒を澄む山路かな
   支考

此句は山路を夜寒にすべきよしにて、その会みちて帰るとて、集などに出すべくば、もとの山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ。

行秋や手をひろげたる栗のいが
   翁

船をあがりて、一二里がほどに日をくらして、さる沢のほとりに宿をさだむるに、はい(ひ)入て宵のほどをまどろむ。されば曲翠子の大和路の行にいざなふべきよし、しゐ(ひ)て申されしが、かゝる衰老のむつかしさを、旅にてしり給はぬゆへ(ゑ)なるべしと、みづからも口お(を)しきやうに申されしが、まして今年は殊の外によは(わ)りたまへり。その夜はすぐれて月もあきらかに、鹿も声々にみだれてあはれなれば、月の三更なる比、かの池のほとりに吟行す。

びいと啼尻声かなし夜の鹿
   翁

鹿の音の糸引はえ(へ)て月夜哉
   支考

九月九日

菊の香やな良には古き仏達
   翁

霜を(お)かぬ三笠のかげや神の菊
   支考

銭百のちかひ出来たならの菊
   維然

   幾年斗にや侍らん、この宮古の西大寺に詣して

若葉して御目の雫拭ばや
   翁

   雪芝亭

涼しさや直に野松の枝の形
   翁

   草庵をとぶらへる人に対して

君火たけよき物みせむ雪丸
   翁

右一集はことし元禄の夏四月
廿九日 猿雖 亭におゐ(い)て、記焉。

   連衆廿五人

難波部 前後日記

去年元禄の秋九月九日、な良より難波津にわたる。生玉の辺より日を暮して

菊に出てな良と難波は宵月夜
   翁

今宵は十三夜の月をかけて、すみよしの市に詣けるに、昼のほどより雨ふりて、吟行しづかならず。殊に暮々は悪寒になやみ申されしが、その日もわづらはしとて、かいくれ帰りける也。次の夜はいと心地よしとて、畦止亭に行て、前夜の月の名残をつぐなふ。住吉の市に立てといへる前書ありて

(枡)買て分別かはる月見かな
   翁

   車庸亭

面白き龝の朝寐や亭主ぶり
   翁

   廿六日は清水の茶店に遊吟して 泥足が集
   俳諧あり。連衆十二人。

人声や此道かへる秋のくれ

此道や行人なしに穐の暮

此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと独歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、そこに所思といふ題をつけて、半哥仙侍り。爰にしるさず。

松風や軒をめぐつて秋暮ぬ


是はあるじの男の深くのぞみけるより、かきてとゞめ申されし。

   旅 懐


此秋は何で年よる雲に鳥


此句はその朝より心に篭てねんじ申されしに、下の五文字、寸々の腸をさかれける也。 是はやむ事なき世に、何をして身のいたづらに老ぬらんと、切におもひわびられけるが、されば此秋はいかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て後は、明暮になやみ申されしが、京・大津の間をへて、伊勢の方におもむくべきか、それも人々のふさがりてとゞめなば、わりなき心も出きぬべし。とかくしてちからつきなば、ひたぶるの長谷越すべきよし、しのびたる時はふくめられしに、たゞ羽をのみかいつくろひて、立日もなくなり給へるくやしさ、いとゞいはむ方なし。

白菊の目にたてゝ見る塵もなし
   翁

是は 園女 が風雅の美をいへる一章なるべし。此日の一会を生前の名残とおもへば、その時の面影も見るやうにおもはるゝ也。

明日の夜は芝柏が方にまねきおもふよしにて、ほつ句つかはし申されし。

秋深き隣は何をする人ぞ
   翁

八日

之道すみよし の四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおも思ふに、

   病中吟


旅に病で夢は枯野をかけ廻る
   翁

その後支考をめして、なを(ほ)なを(ほ)廻る夢心といふ句づくりあり。いづれかと申されしに、その五文字はいかに奉り候半と申ば、いとむつかしき事に侍らんと思ひて、此句なにゝかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍らん、今はほいなし。みづから申されるけるは、はた生死の転変を前にを(お)きながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に篭て、年もやゝ半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、たゞちは今の身の上におぼえ侍る也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすがへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世は、などなかりけると思ふ人も世にはあるべし。

九日

服用の後、支考にむきて、此事は 去来 にもかたりを(お)きけるが、此度嵯峨にてし侍る、大井川のほつ句おぼへ(え)侍るかと申されしを、あと答へて、

   大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申しければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もなき跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて、

清滝や波にちり込青松葉
   翁

十日

その外ばせを(う)庵に安置申されし出山の尊像は、支考が方につたへ侍る。是は行脚の形見なるべし。

「出山の尊像」は第二次芭蕉庵完成した時に文鱗が贈ってくれたものである。

十八日

  所願忌

湖南・江北の門人おのおの 義仲寺 に会して、無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。塚の東隅に芭蕉一本を植て、世の人に冬夏の盛衰をしめすとなり。此日百韵あり。略之。

なきがらを笠にかくすや枯尾花
    其角

 温石さめてみな氷る声
   支考

行燈の外よりしらむ海山に
    丈草

霜月   此時は伊勢の国にありて、我草庵にこの日の供養をまうけ侍
三十日 る。

右は去年の冬季、帰鳥庵
におゐ(い)て、記焉。

京 都 附嵯峨

   去年の夏なるべし

      去来別墅にありて

朝露よごれて涼し瓜の泥
   翁

 賛

   雲竹自画像

こちらむけ我もさびしき秋の暮
   翁

是は湖南の 幻住庵 におはす時の作也。君は六十、我は五十といへる老星一聚(いつしう)の前書侍りけるが、あやまりておぼえ侍らず。

   茄子絵

見せばやな茄子をちぎる軒の畑
    惟然

 その葉をかさねお(を)らむ夕顔
   翁

   是は惟然、みのに有し時のなるべし。

  嵯峨 五句


ほとゝぎす大竹原を漏る月夜
   翁

    落柿舎

五月雨や色紙まくれし壁の跡

   野明亭

清瀧の水汲よせてところてん

   小倉ノ山院

松杉をほめてや風のかほ(を)る音

    嵐山

六月や峯に雲置あらし山

   いづれの時の秋にや、 去来 ・千子が伊勢まう
   での比、道の記かきて深川に送りけるに、奥
   書の褒美ありて、

西東あはれさおなじ秋の風
   翁

   去来文通

囀るもかへりがけなる小鳥かな
    浪化

   三月十二日大津 義仲寺
   古翁のつかにまうでゝ

かけろふや苔につきそふ墓めぐり
   仝

   此夏賀茂祭りにまうでゝ
  長崎
剃さげのあふひをはさむ烏帽子哉
   魯町
  
風口に来てはねころぶ凉みかな
    卯七

此冬の寒さもしらで秋の暮
    惟然

    落柿舎

放すかと問るゝ家や冬ごもり
    去来

   名 月

岩はなやこゝにもひとり月の客
   仝

   此夏回国の時、
      みのにて申侍る

夏かけて真瓜も見えずあつさ哉
   仝

    此句はみのへつかはし候へども、懸御目ニ候。
    尤申捨にて候。

      七月八日

   哥 仙
 去来
猫の子の巾着なぶる凉みかな

   塀のかはりにたつる若竹
   支考

折角とちか道来ればふみ込て
   風国



   今年元禄乙亥の夏四月二十五
   日、桃花坊おゐ(い)て、記焉。

湖南部

元禄三年の秋ならん、 木曾塚の旧草 にありて、敲戸の人々に対す

草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
   翁

十六夜 三句

やすやすと出てゝいざよふ月の雲
   翁

十六夜や海老煮る程の宵の闇


   その夜浮見(御)堂に吟行して


鎖あけて月さし入よ浮み堂


浮御堂


おなじ年九月九日、乙州が
 一樽をたづさへ来りけるに

草の戸や日暮れてくれし菊の酒
   翁

 蜘手にのする水桶の月
   乙州

    正秀 亭初会興行の時

月しろや膝に手を置宵の宿
   翁

 萩しらけたるひじり行燈
   正秀

   去年の夏、又此のほとりに遊吟して、遊刀亭にあ
   そぶとて

    納涼 二句

さゞ波や風の薫の相拍子
   翁

湖やあつさをお(を)しむ雲の峰

   湖水田植


渺々と尻ならべたる田植哉
   仝

   本間氏主馬が亭にまねかれしに、大夫が家名を
   称して、吟草二句

ひらひらとあぐる扇や雲の峯

蓮の香を目にかよはすや面の鼻

   おなじ津なりける湖仙亭に行て

此宿は水鶏もしらぬ扉(とぼそ)かな

春雨やぬけ出たまゝの夜着の穴
   丈草

堂頭の新そばに出る麓かな
   丈草

一よさに猫も紙子もやけど哉
   丈草

右一集はことし元禄の夏、四
月十二日 木曾塚 の旧草におゐ(い)て、
記焉。

   連衆十五人

笈日記 中巻

彦根部

元禄五年神な月のはじめつかたならん、月の沢ときこえ侍る 明照寺 に羈旅の心を澄して

たふとがる涙やそめてちる紅葉
   翁

 一夜静るはり笠の霜
    李由

「元禄五年」は元禄四年の誤り。明照寺の住職は李由。

次の年ならん、神な月三日の夜、許六亭にて哥仙あり。爰にしるさず。

けふばかり人も年よれ初しぐれ
   翁

「次の年」は元禄5年(1692年)。

    深川の草庵 をとぶらひて

寒菊の隣もありやいけ大根
    許六

   冬さし籠る北窓の煤
   翁

   留 別

      深川の草庵をいづるとて

木からしや跡にひかゆる冨士の山
   許六

大垣部

   貞享元年の冬、 如行 が旧茅に旅寐せし時

霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申
   如行

 古人かやうの夜の木がらし
   翁

   此時世をいかにおもひ捨給へるならん、薄
   を霜の髭四十一 と申され侍しも、此所にて
   あなるよし。すでに初老にてはありけるかし。

  千川亭


折々に伊吹を見てや冬籠


   斜嶺亭

   戸をひらけば、にしに山あり。息吹といふ。
   花にもよらず、雪にもよらず、只これ孤山
   の徳あり

其まゝに月もたのまじいぶき山


  画 讃

西行の草鞋もかゝれ松の露

  菊  如行

痩ながらわりなき菊のつぼみ哉

  竹  木因

降ずとも竹植る日は蓑と笠

   是は五月の節をいへるにや、いと珍し。

  木因亭

かくれ家や月と菊とに田三反
   翁

  おなじ比、
     舟にて送るとて

秋の暮行先々の笘(苫)屋かな
   木因

 荻にねようか萩に寐うか
   翁

元禄の今年四月十六日、 如行
亭におゐ(い)て、記焉。

   連衆十二人

岐阜部

画 讃

ところどころ見めぐりて、洛に暫く旅ねせしほど、みのゝ国よりたびたび消息有て、桑門己百のぬしみちしるべせむとて、とぶらひ来侍りて

しるべして見せばやみのゝ田植哥
   己百

 笠あらためむ不破のさみだれ
   ばせを(う)

   其草庵に日比ありて


やどりせむあかざの杖になる日まで


   貞享五年夏日


名にしあへる鵜飼といふものを見侍らむとて、暮かけていざなひ申されしに、人々稲葉山の木かげに席をまうけ、盃をあげて

又やたぐひ長良の川の鮎なます
   翁

夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉
   仝

   鵜舟も通り過る程に、帰るとて


面白てやがてかなしき鵜ぶね哉
   仝

   落梧亭


蔵のかげかたばみの花めづらしや
   荷兮

 折てやはかむ庭の箒木
   落梧

たなばたの八日は物のさびしくて
   翁

その比ならん、落梧のぬし、お(を)さなき者を失へる事をいたみて

もろき人にたとへむ花も夏野哉
   翁

似たかほのあらば出て見ん一お(を)どり
   落梧

されば夏野の花をはかなしと見たる叟、かつみられて、はかなしとおもふ親の心も、ともにとゞまるべからねば、落梧は四とせ斗先に身まかり、阿叟は去年の冬世を去り給へり。かくいふ人も、又いつか人にいはれんとおもへば、なにゝさだむべき世のかぎりぞや。

   稲葉山


撞鐘もひゞくやうなり蝉の声
   翁

   十八楼ノ記

 美濃の国長良川にのぞんで水楼あり。あるじを賀島氏といふ。稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。 さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。

このあたり目に見ゆるものは皆涼し
   ばせを(う)

貞亨五仲夏

   その年の秋ならん、この国より旅立て、更科
   の月みんとて、

    留別 四句

送られつおくりつ果ては木曽の秋
   翁

草いろいろおのおの花の手柄かな

   人々郊外に送り出て、三盃を傾侍るに

朝がほは酒盛しらぬさかり哉

ひよろひよろとこけて露けし女郎花

貞亨5年(1688年)8月、芭蕉は 『更科紀行』 の旅に出発した。

瓜畠集

是は落梧のぬし、かねて撰集の事思ひたゝれけるに、その志ならずして、すたれむ事をお(を)しみて、その方の人々此部の末に撰出し侍る。

落梧なにがしのまねきに応じて、稲葉山の松の下涼して、長途の愁をなぐさむほどに

山かげや身をやしなはむ瓜畠
   ばせを(う)

    露沾 公に申侍る

五月雨に鳰の浮巣を見に行む
   翁

   岐阜山にて

城あとや古井の清水先問む
   翁

   加賀の国を過とて

熊坂がゆかりやいつの玉(魂)まつり
   翁

   秋 野

名もしらぬ小草花さく野菊哉
    素堂

蜻蜒(とんぼう)や取りつき兼し草の上
   翁
※蜒は「延」ではなく「廷」

蜂の髭ににほひうつらん花の蘂(しべ)
   落梧

山里は万歳おそし梅の花
   翁

元禄のことし四月十二日、
岐山の草々庵におゐ(い)て、
記焉。

   連衆十八人

尾張部

牡丹しべを分て這出る蜂の名残哉
   去年元禄七年前の五月なるべし。尾張の国に
   入て、旧交の人々に対す

世を旅にしろかく小田の行戻り
   翁

   閑居をおもひ立ける人のもとに行て


涼しさはさし図に見ゆる住居(すまひ)
   仝

   元禄三(四)年の冬神な月廿日ばかりならん、あ
   つ田梅人亭に宿して、塵裏の閑を思ひよせら
   れけむ、九衢斎といへる名を残して

水仙や白き障子の友移リ
   仝

   おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢
   へるとて

奥底もなくて冬木の梢かな
    露川

 小春に首の動くみのむし
   翁

   抱月亭

市人にいで是うらん笠の雪
   翁

 酒の戸をたゝく鞭の枯梅
   抱月

   是は貞享のむかし抱月亭の雪見なり。おの
   おの此第三すべきよしにて、幾たびも吟じあ
   げたるに、阿叟も転吟して、此第三の附方あ
   またあるべからずと申されしに、杜国もそこ
   にありて、下官(やつがれ)もさる事におもひ侍
   るとて

朝がほに先だつ母衣を引づ(ず)りて
    杜国

   と申侍しと也。されば鞭にて酒屋をたゝくと
   いへるものは、風狂の詩人ならばさも有べし。
   枯梅の風流に思ひ入らば、武者の外に此第三
   有べからず。しからば此一座の一興はなつか
   しき事かなと、今さらにおもはるゝ也。

ためつけて雪見にまかる紙子哉
   翁

面白し雪にやならん冬の雨

   おなじ比ならん、杜国亭にて中あしき人の事、
   事取りつくろひて

雪と雪今宵師走の名月歟

   そのとし あつ田 の御造営ありしを

とぎ直す鏡も清し雪の花

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

   尾張の国あつ田にまかりける比、人々師走
   の海をみんとて、舟さし出て

海暮て鴨の声ほのかに白し
ばせを(う)

   おなじ比、鳴海にわたりて

星崎の闇を見よとや啼千鳥


   巴丈亭

   はつかあまりの月かすかに、山の根ぎはいと
   (くらく)、こまの蹄もたどたどしくて、落ぬべ
   き事あまたゝびなりけるに、数里いまだ鶏鳴
   ならず。杜牧が早行の残夢、 小夜の中山
   至て忽おどろく

馬に寐て残夢月遠し茶の烟(けぶり)
ばせを(う)

   三聖人図


月花の是やまことの主達

 題 二句


   野中の日影


蝶の飛ばかり野中の日かげ哉

   雲雀ふたつ


永き日を囀りたらぬ雲雀かな

  覓閑 三句

   杉の竹葉軒といふ庵をたづねて

粟稗にまづしくもなし草の庵

   田中の法蔵寺にて


刈あとや早稲かたかたの鴫の声

   大曽根成就院の帰るさに

有とあるたとへにも似ず三日の月

   むかし此国より武江にくだるとて、人々に留
   別す


   翁

   杜国紀行

すくみ行や馬上に氷る影法師
ばせを(う)

   旅宿

ごを焼(たい)て手拭あふる寒さ哉


   いらご崎を見わたして


鷹ひとつ見つけて嬉しいらご崎

   杜国

さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿

麦はえてよき隠家や畠村

   此時は 越人 も具せられしとかや

寒けれど二人旅寝はおもしろき

   次のとしならん、越人が方へつかはすとて

二人見し雪は今年も降けるか



   隠士山田氏の亭にとゞめられて


水鶏啼と人のいへばや佐屋泊
   ばせを

 苗の雫を舟になげ込
   露川

朝風にむかふ合羽を吹たてゝ
   素覧

 追手のうちへ走る生もの
   翁

元禄のとし三月二十六日、
尾城の白露庵におゐ(い)て、
記焉。

   連衆四十三人

伊勢部

   貞享の間なるべし。此国に抖櫢ありし時、

  奉納 二句
   ばせを(う)

   西行のなみだをしたひ、増賀の信をかなしむ

何の木の花ともしらずにほひかな

裸にはまだ二月のあらしかな

   おなじ春ならん、なにがし寺に詣して

神がきや思ひもかけず涅盤(槃)

   菩提山

山寺のかなしさつげよ野老(ところ)ほり

※「野老」は草冠+「解」


菩提山は朝熊山の西麓にあった伊勢の神宮寺。荒廃していたそうだ。

   二乗葉

藪椿門はむぐらの若葉哉

   守栄院

門に入ればそてつに蘭のにほひ

   龍尚舎

物の名を先とふ荻の若葉哉

   廬牧亭

蔦植て竹四五本のあらし哉

    園女

暖簾(のうれん)の奧ものゆかし北の梅

   かへし

時雨てや花迄残るひの木笠
   その女

 宿なき蝶をとむる若草
   翁

 讃

   あすは檜の木とかや、谷の老木の言へる事あ
   り。きのふは夢と過て、あすは未だ来らず。
   たゞ生前一樽の楽しみの外に、あすはあすは
   といひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ

さびしさや華のあたりのあすならふ(ろ)
  ばせを
     (う)
蝉啼や川に横ふ木のかげり
    団友

   師走のそらの、あそぶ方なくて

掛乞に我庭みせむ梅の花
   団友

今年元禄の夏五月十二日、
涼菟 斎におゐ(い)て、記之。

   連衆十九人

笈日記 下巻

 雲水部

 元禄8年(1695年)春、各務支考は伊勢から江戸へ旅立つ。

  今年元禄乙亥の春、伊勢の国より
  武江の方へ旅だつとて

   留別 二句
   露川
    支考
鴈の声おぼろおぼろと何百里

   むまのはなむけしける人に

しら玉や梅のつぼみも一包

   餞 別

見送らむ花もかすみも塩見坂
    団友

見ひらくやはなの天気のあみだ笠
    乙由

桑名 五句

   古益亭

冬ぼたんちどりか雪のほとゝぎす
   翁

   おなじ比にや、浜の地蔵に詣して


雪薄し白魚しろきこと一寸

    此五文字いと口お(を)しとて、後には 明ぼの
    もきこえ侍し。

狼も一夜はやどせ芦の花


花を吸ふ虻なくらひそ友すゞめ


    此二句も阿叟の吟なるよし。此ほとり漂泊
    の間なるべし。

   又いかなる時にか侍りけむ、たどの権現を過
   るとて

宮人よ我名をちらせ落葉川

   途中吟 五句
   支考
あれ是をあつめて春は朧かな

布子来て夏よりは暑し桃の花

   小夜の中山よりかの大井川を見渡して

日晴れは落花に雪の大ゐ川

   安倍河はたゞ名のみして

水上は鶯啼て水浅し

   箱根を越る日は、雪なを(ほ)降ける

鶯の肝つぶしたる寒さかな

 3月4日、江戸に着き、14日まで滞在。

  武 江

   三月四日、武江にいたる。きのふは桃花の節
   なりとて

鶏の獅子にはたらく逆毛哉
    其角

   その比嵐雪亭に、句合の侍りけるが
   其一

白つゝじまねくやう也角櫓    嵐雪

十二日は阿叟の忌日つとむるとて、 桃隣 をいざなひて、深川 長渓(慶) にまうで侍る。是は阿叟の生前にたのみ申されし寺也。堂の南の方に新に一箕の塚をきづきて、此塚を発句塚といへる事は

世の中は更に宗祇のやどり哉
   翁

   此短冊を 此塚 に埋めけるゆへ(ゑ)なり。此ほつ句
   はばせを(う)庵の一生の無ゐなるべしと、 杉風
   ぬし、語り申されし。

  かの塚の前に香華をそなへ、まさ木の枝を折、左
  右にかざしを(お)きて、いふ事も思ふ事も、なき跡は
  しらずなりぬるよと、ふたりながら泣て出ぬ。そ
  の後は旧草を見に行けるが、たゞ見しらぬ人の住
  てぞ侍るなる。

   むかし此叟の深川を出るとて、此 草庵 を俗な
   る人にゆづりて

草の戸も住みかはる世や雛の家

   今はまことに、すまずなりてかなし。

    素堂

     十日の菊

   蓮池の主翁、又菊をあいす。きのふは竜山
   の宴をひらき、けふはその酒のあまりをすゝ
   めて狂吟のたはぶれとなす。なを(ほ)思ふ、
   明年誰かすこやかならん事を

いざよひのいづれか今朝に残る菊
  ばせを
    (う)
咲事もさのみいそがじ宿の菊
    越人

かくれ家やよめなの中に残る菊
    嵐雪

此客を十日の菊の亭主あり
    其角

さか折のにゐ(ひ)はりの菊とうたはばや
   素堂



木曾の痩もまだなを(ほ)らぬに後の月
  ばせを
    (う)

仲穐の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさのめにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。

  十四日武江を旅だちけるに

   餞 別

高砂に足ふみもどせ山ざくら
   介我

咲花の中をぬけ出て尻つまげ
    乙州

見事なる旅の相手や花に鳥
    桃隣

 嶋 田

十八日嶋田の駅に入て、 如舟 亭に足をやすめ侍る。此亭はかつて阿叟の往来の労をたすけ侍るゆへ(ゑ)ありて、吟草もあまた侍りける中に

 額

   五月雨の雨風しきりにおちて、大井川水出
   侍りけるにとゞめられて、しまだに逗留す。
   如舟・如竹などいふ人のもとにあそびて

ちさはまだ青葉ながらになすび汁


さみだれの雲吹おとせ大井川


   竹ノ讃

たは(わ)みては雪まつ竹のけしきかな
   ばせを
    (う)
   今の嶋田よし助が門も見捨がたくて

かぢの火も殊さらにこそ笠の霜
    嵐雪

驚かぬ往来(ゆきき)や冬の大ゐ川
    桃隣

 三 河

   新城はむかし阿叟の逍遥せし地也。なにがし
    白雪 といふお(を)のこ、風雅の子ふたりもち侍
   る。二人ながらいとかしこくぞ侍る。阿叟もその
   少年の才をよみして、是を桃先・桃後と名づ
   け申されしを、支考も名の説かきてとゞめけ
   る也。

其にほひ桃より白し水仙花
   翁

   是は水仙の花を桃前桃後といへるより、かく
   はいへるなるべし。

しのぎかね夜着をかけたる火燵哉
   桃先

節季候のはりあひぬかす明屋哉
   桃後

   菅沼亭

京にあきて此木がらしや冬住ゐ
   翁

   おなじ比、鳳来寺に参竜(籠)して


木枯に岩吹きとがる杉間かな


夜着ひとつ祈出して旅ね哉


 彦根

卯月十八日 許六 亭に寄宿す。物語の序に、みづから絵かきたる色紙数多取出し給へるに、人々の筆にて、その人のほつ句かゝせを(お)きけるが、巻頭は先師ばせを(う)庵の四季の句にてぞおはしける。くりかへしたる中に、梨の花の白妙に咲て、その陰に唐めきぬる人の驢馬の頭引たて背むきに乗たる絵の侍り。是は支考が東路にて、「馬の耳すぼめて寒し梨の花」と申侍しほつ句かゝせむと思へるなるべし。されば此句のからめきて、詩に似たりと見給へる眼は、絵を得て俳諧をさとり、俳諧をえて絵にうつし玉へるならん。みづからなしを(お)きたる事の此さかひにいたらざるは、絵につたなきゆへ(ゑ)ならんと、いとゞうらやましかりし。

されば人の句をきかむ事やすからじ。去年の夏、阿叟の 桃花坊 におはす時、人々よりい(ゐ)て物語し侍るに、支考が集つくらば、なにがしの桐火桶に似せて侍らん。たとへば

梅が香にのつと日の出る山路かな
   翁
なまぐさし小なぎが上の鮠(はえ)の膓

梅が香の朝日は余寒なるべし。小なぎの鮠のわたは残暑なるべし。是を一躰の趣意と註し候半と申たれば、阿叟もいとよしとは申されし也。その後、大津の木節亭にあそぶとて

ひやひやと壁をふまえ(へ)て昼寐哉

 雲水追善

    我泣声は秋の風 と聞しに、同事と成玉ひしか
   なしさ。
   愁傷十方、なくて一字をたむけぬ

塚も動け我泣声は冬の風
   東藤

出羽の国羽黒の麓なる図司なにがし呂丸、四とせの先ならん、宮古の方をゆかしがりて、古さとは葉月の中比にうかれたちて、野店の月・山橋の霜、かねておもひぬるまゝにわびけると也、かくて武のばせを(う)庵に旅ねして、しばしの秋をお(を)しみ、洛の桃花坊にかりゐして、春のやがてきたらんといふ事をまつ。 その春の花も半ならんほどは、支考にくみして、大和路の行脚もすべきなど、さゝめかしおもひけるに、む月の中比よりやみつき侍りて、何のすべきやうもあらで、春も二月の二日なるに身まかりける也。されば、此郎は門にまたるべき子さへありて、妻はいとわかくて侍り。その夢にあえ(へ)ぬつまこに、此便きかせ侍らば、まづ人をなむうらみぬべし。 それ雲水漂泊のものは、おもふ方もつまじきゆへ(ゑ)なりと、誰々もおもふかは。その比、是をきゝつたへ侍る人は、いとあはれとて、手むけしける人もおほかりしが、かつて浪子となりて、ひとへに客をあはれむといへる。まして此時の手向なるべし

支考

しにゝ来てその二月の花の時

当皈(とうき)よりあはれは塚のすみれ草
   ばせを(う)

 雲水発句

   訪山隱

梅白し昨日や鶴をぬすまれし
   翁

   出羽の便にきこえ侍る
  さか田
山畑をこけて落たる胡瓜かな
    不玉

榎の実ちるむくの羽音や朝あらし
   翁

金屏に松のふるびや冬籠り
   翁

有明もみそかにちかし餅の音
   仝

今年元禄の秋七月十五日、
幾暁庵におゐ(い)て、記焉。

笈日記 余興

白壁の間にはさかる月よ哉
如舟

   此如舟は、するがの国嶋田の駅より参宮申さ
   れしが、吾草庵をたづねて、此句申捨られし。

奥深に月は隣の梢かな
団友

元禄の秋八月十五日、
洛の 桃花坊 におゐ(い)て、校焉。

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