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蕉 門

谷木因
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 幼名伊勢松。名を正保、九太夫と称した。別号白桜下。北村季吟の門人。芭蕉と同門である。

 正保3年(1646年)、岐阜大垣の廻船問屋に生まれる。

 正保5年(1648年)、父正次没。

 承応2年(4月22日)、赤坂の伯母が後見人となる。

 万治3年(1660年)、15歳で家督を相続。

 延宝9年(1681年)7月、木因東下、芭蕉・素堂と会う。『千代倉家日記抄』(知足日記)の「7月4日」に「大がき木因下り」とある。。

 天和2年(1682年)2月上旬、木因宛の芭蕉書簡がある。

      一日芭蕉翁より文通あり。其書面

当地或人附句あり。此句江戸中聞人無御座、予に聽評望来候へ共、予も此附味難弁候。依之為御内儀申進候。御聞定之旨趣ひそかに御知せ可下候。東武へひろめて愚之手柄に仕度候。

      附句

   蒜の籬に鳶をながめて

  鳶のゐる花の賎屋とよみにけり

 貞亨元年(1684年)8月、芭蕉は 『野ざらし紀行』 の旅に出る。大垣で木因亭に泊まった。

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

10月、木因亭で付合。

能程に積かはれよみのゝ雪
   木因

冬のつれとて風も跡から
   はせを


大垣では 如行 亭にも宿泊している。

 10月、芭蕉は木因と 多度権現 に参詣。

伊勢の国多度山権現のいます清き拝殿の落書、

武州深川の隠、泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣勧(觀)水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召れ候へ。

伊勢人の発句すくはん落葉川   木因

右の落書をいとふの心 こゝろ、

宮守よわが名をちらせ木葉川   桃青

『桜花文集』(句商人)

 芭蕉は木因と桑名 本統寺 三世の大谷琢恵を訪れ、翌朝 浜の地蔵 に遊ぶ。



海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。

雪薄し白魚しろき事一寸
   芭蕉翁

白うをに身を驚な若翁
   木因

『桜下文集』(句商人)

 貞亨3年(1686年)閏3月14日、大淀三千風は京を出て東山道に赴き、美濃の大垣へ。

○かくてみのゝ大垣俳人のがりまかでしに。いせ櫻にときゝて。せうぞこしてをき侍れは。明の春脇句にまた發句そへてをくられし。


 貞亨3年(1686年)12月30日、養子平太夫に家督を譲り、隠居。

 貞亨4年(1687年)、剃髪。隠宅を白桜下と号す。

 貞享5年(1688年)4月、芭蕉は木因を訪ねたとする説がある。

一とせ(元禄元年四月なりと伝ふ)芭蕉、行脚の砌訪ひ来りしを、

   矢張召せ此処は伊吹の吹すかし

とて之を迎へしに、芭蕉

   来てみれば獅子に牡丹の住居哉      翁

と返して、風雅の道に長く留まりたりと云ふ

『大垣市史』(谷木因)

高橋の欄干に「芭蕉」と木因 の句がパネルに刻まれている。



木因の句
  
「芭蕉」の句

  

矢張召せ此処ハ伊吹の吹すかし
  
来てミれは獅子ニ牡丹の住居哉

 貞享5年(1688年)9月30日、元禄に改元。

 元禄2年(1689年)8月21日、芭蕉は大垣に到着。谷木因の別宅に泊まって句を詠んだという。



   木因何某隠居をとふ

隠家や菊と月とに田三反

 9月6日、芭蕉は 伊勢の遷宮 を拝みに大垣から舟で二見に向かう。

住吉燈台 の下に芭蕉送別連句塚がある。


木因 舟に而送り如行其外連中
舟に乗りて三里ばかりしたひ候

秋の暮行先々ハ苫屋哉
   木因
萩にねようか荻にねようか
   はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立給へ
    如行
蛤のふたみへ別行秋そ
   愚句

先如此に候以上   はせを

芭蕉を見送る木因像


元禄5年以降木因亭で詠まれたとされる句がある。

  竹 木因亭

降ずとも竹植る日は蓑と笠

是は五月の節をいへるにや、いと珍し。

『笈日記』 (大垣部)

 元禄6年(1693年)1月20日、 深川芭蕉庵 から大垣の木因に宛てた書簡に「 春もやや気色ととのふ月と梅 」の句がある。

 元禄12年(1699年)、 各務支考 は大垣を訪れ木因と歌仙。

   大垣

途中から鳴出す空や郭公
   木因

 麥の穂つらのやまはむら雨
   支考


 元禄16年(1703年)10月、 岩田涼菟 は谷木因を訪れてしばらく滞在している。

   撰集の沙汰有てしはらく白櫻下 に足をとゝめ侍るに
   名古屋の人々に招れてほし崎呼つきの濱一見して
   鳴海 知足亭 に遊ふ

火燵から友よひつきの濱近し
   涼菟


   行脚戻

隼の手柄も多し越のやま


 宝永2年(1705年)、魯九は長崎に旅立つ。帰途、木因を訪ねている。

   美濃 大垣

  何かし魯九のぬしことし風雅の嶋めくりして
  西海より歸りにその嶋ふりをかたる五文字
  の横にハらはふ島あり或ハ一句二十文字に
  あまりてぬらり姿ハ彼せい高と聞へし
  嶋ふりなとハしハしにハ異端の風躰も殘
  しとなん十か八つの嶋ハ正風の行き渡て
  なと一夜かたりて草室の月にうそふく陀
  袋の風流に箱崎の松の葉をひろひとりしを
  我白櫻下の家つとにのこすしらす遠津國
  の名物を此里の雪に詠むハ是こそ風雅の
  活たるならめと花ほうるみとりなといふ菓子
  をうちあけてかの二葉をのせけふの初
  雪をつもらせこゝろさしの風流を
  おきなふ

箱崎の松に雪見んすゝり蓋
 谷九太夫
 木因


 宝永4年(1707年)10月、朱拙は木因を訪ねる。

 宝永7年(1710年)、木因は 「物見の松」 のことを書いている。

青野松

美濃の国樽井の駅の東に広野あり。青野といふ。一木の松立て、枝配る事千とせをかぞへ、葉を并べてみどりなり。往昔朱雀帝東夷やらひの時、南宮金山彦の大神にねがひ、此木に祓ましまして四手掛松の名を称せり。さるを長範とかや聞へし賊此陰に遠見せしより、世に熊坂が物見の松とは呼れたり。鴬のぬふてふ小笠は一人旅の顔かくし、ほとゝぎすの沓手は駅馬の足たゆげなり。今も黄金のをミなへしを野風に奪はれ、尾花が袖を山おろしの刷とるめり。されば勝母の里に車をかへし、盗泉の水に錫をこらしめ給ふためしを思へば、あゝ名の名にあらざる事たれかかなしまざらんや。

   大切の名を盗れな雪の松

宝永庚寅冬日
   白桜下木因書

垂井町の綾戸古墳 に木因の句碑がある。


大切の名をぬすまるゝゆきの松

 宝永8年(1711年)4月16日、病臥。

 宝永8年(1711年)4月25日、正徳に改元。

 正徳元年(1711年)8月5日、漸く全快。

      快気

病家日をふりしもふけに、我が白髪三千丈としげれり。おりおり香を携へ、牡丹花老人の髭の風流をかりてたのしみとせしに、医の曰、冗気保養のため、けふは髭の林に杣入む事を示せり。阿呼、しらぬ翁の猶しらぬ翁にあへるがごとし。

   惜む髭剃たり窓に夏木立

「病床三度之吟」

岐阜県大垣市の 史跡奥の細道むすびの地」 に木因の句碑がある。



惜ひひげ剃たり窓に夏木立   白桜下木因

「木因俳句道標」もある。


南いせくわなへ十りざいがうみち

享保10年(1725年)9月30日、80歳で没。

大垣市船町の 正覚寺 に墓がある。

木因の句

 始 筆

筆始今の美人は誰々そ


門松の木藥店や大袋

   凉子が旅やつれに鏡かして

はつとした鬢にかゝるやよしの花


姑女の顔やたとへは入梅の晴


深爪に風のさはるや今朝の秋


   大嶋の花にて

櫓のところ棹の所や江のさくら

   行脚戻

隼の手柄も多し越のやま


夏浅し朧もはけす淡路島


柳垂れてあらしに猫を釣る夜哉


   初瀬寺にて

塀越に花見所化の天窗哉


白菊のおもては白しはつ時雨


裏散つ表をちりつもみち哉


片枝を築地のわける桜哉


同し灯を切篭にみるは哀なり


さらしなや田毎の星の化ごゝろ


痩ぎすな男に黒き袷哉


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