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蕉 門

近藤如行

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大垣藩士。通称は源太夫。大垣最初の門人である。

如行 美濃産、近藤、武士ナリ。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 貞享元年(1684年)、『野ざらし紀行』の旅の途上芭蕉が大垣を訪れた時に入門。芭蕉は、如行宅に宿泊。

霜寒き旅寐に蚊屋をきせ申

   翁をはじめてやどしける夜、ふと申出ければ

古人かやうのよるの木がらし

   かく有て興じ給ひぬ。


 貞享4年(1687年)12月1日、如行は熱田に芭蕉を訪ねる。

 貞享4年(1687年)、 『如行子』 成立。

芭蕉は如行亭で菊の絵に画賛として句を書き入れたようだ。

  菊 如行 亭

痩ながらわりなき菊のつぼみ哉

『笈日記』 (大垣部)

貞亨4年(1687年)、江戸で詠まれた句である。

 元禄2年(1689年)8月21日、大垣で芭蕉を自宅に迎える。

駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。

『奥の細道』

   如行か席上の餐興を制して

白露のさひしき味をわするゝな


存疑句である。

 9月3日、半歌仙を巻く。

野あらしに鳩ふき立る行脚哉
   不知

山にわかるゝ日をはきの露
   荊口

はつ月や先西窓をはかすらん
   はせを

浪の音好人もありけり
   如行


 9月4日、芭蕉は 戸田如水 の下屋敷に招かれる。

 9月6日、芭蕉は 伊勢の遷宮 を拝みに大垣から舟で二見に向かう。

大垣市の 「史跡船町港跡」 に芭蕉送別連句塚がある。



木因 舟に而送り如行其外連中
舟に乗りて三里ばかりしたひ候

秋の暮行先々ハ苫屋哉
   木因
萩にねようか荻にねようか
   はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立給へ
   如行
蛤のふたみへ別行秋そ
   愚句

先如此に候以上   はせを

如行霧塚


霧晴ぬ暫く岸に立給へ

元禄3年(1690年)4月19日、如行は 幻住庵 を訪れている。

涼しさやともに米かむ椎が本


元禄4年(1691年)の初冬、芭蕉は江戸に向かう途中で斜嶺亭に招かれた。

   元禄四年の初冬、茅屋に芭蕉翁をまねきて

もらぬほどけふは時雨よ草の屋根
   斜嶺

 火をうつ声にふのうぐひす
   如行

一年の仕事は麦におさまりて
   芭蕉

 垣ゆふ舟をさし廻すなり
    荊口

打連れて弓射に出る有明に
   文鳥

 山雀籠を提(さげ)る小坊主
   此筋


元祿8年(1695年)1月12日、 正覚寺 に「尾花塚」を建立。

「芭蕉翁」


芭蕉百日忌追善集 『後の旅集』

 元禄8年(1695年)4月16日、支考は 『笈日記』 (大垣部)を如行亭において記したという。

 元禄9年(1696年)頃、名古屋に移住。

露川 は如行を訪れている。

   如行亭にて

鶯や巣を掛かえ(へ)て寝る覚悟


宝永5年(1708年)、没。

如行の句

我を客我をあるじやけふの月


掃おろす牛の背中の落葉哉


鵯の鳴たつ栗の落葉哉


春雨や芦間の蟹も小陰とる


   兩儀五氣天の命令をうけて、死生
   にかきらす萬事万物自然の理にし
   て、一木一草の枯榮るも命なりと、
   皆人の知所なから

草につけ木につけかなし神無月


しる谷やつほみの雫遅さくら


芽を出して末つまゝるゝ円柏<イブキ>

風吹ておもしろき日や蕎麦の花


鷹師の鷄にふまれて手柄かな


羽二重の心になるや華の春


雲きれの比叡のくぼみや郭公


   泉州岸和田にとまりて

瀬戸かけて平家に似たる月夜哉


さひはてゝ鮎草臥つ水の淀


饅頭をならせうならは柳哉


尤でうちくらしたる柳哉


目利してわるい宿とる月見哉


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