このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜北陸〜


史跡船町港跡〜

大垣市船町に「史跡船町港跡」がある。


   岐阜県指定史跡   住吉燈台
   大垣市指定史跡   船町港跡

 船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で物資の輸送と人の往来の中心であった。

 明治16年(1883年)には大垣─桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。

 住吉燈台は元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識として建てられたものである。高さ8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり、形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。

大垣市教育委員会

住吉燈台


 元禄2年(1689年)9月6日(陽暦10月18日)、芭蕉は 伊勢の遷宮 を拝みに大垣から舟で二見に向かう。

住吉燈台の下に芭蕉送別連句塚があった。


木因 舟に而送り如行其外連中
舟に乗りて三里ばかりしたひ候

秋の暮行先々ハ苫屋哉
   木因
萩にねようか荻にねようか
   はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立給へ
   如行
蛤のふたみへ別行秋そ
   愚句

先如此に候以上   はせを

元禄2年9月22日付の 杉風 宛と推定される書簡による。

元禄2年仲秋俳聖はせをは、大垣で奥の細道の行脚を終え、多数の門人に見送られて伊勢二見の浦に到り同地の高弟杉風へ大垣舟出の様子を知らせた。

ここにその真筆を刻して、これを縁りの地に建てる。

昭和36年9月22日 大垣市

如行霧塚があった。


霧晴ぬ暫く岸に立給へ

如行は大垣藩士近藤如行。

昭和33年(1958年)、大垣市文化財協会建立。

奥の細道の俳文碑があった。


   奥の細道をむすんだ芭蕉偲んで

駒にたすけられて大垣の庄に入は 曽良 も伊勢より來り合越人も
馬をとばせて如行が家に入集る前川子荊口父子其外したしき人々
日夜とぶらひて蘇生のものにあふがごとく且悦び且いたはる

昭和42年(1967年)9月9日、藤井康司建立。

9月2日、曽良は芭蕉を出迎えに伊勢長島の 大智院 から大垣へやってきた。

芭蕉の句碑もあった。


花にうき世我酒白くめし黒し

出典は 『虚栗』 (其角編)。

天和3年(1683年)、芭蕉40歳の句。

『芭蕉翁發句集』 (蝶夢編)は「貞享元子歳」とするが、誤り。

平成3年(1991年)3月、大垣拓本協会建立。

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