このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

蕉 門

河合曽良
indexにもどる

『俳諧書留』  ・  『雪満呂気』 (曽良遺稿)

『随行日記』の碑  ・  曽良の句碑

河合氏、名は惣五郎。

 慶安2年(1649年)、信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)に生まれる。幼名は庄右衛門与左衛門。両親が亡くなったため母方の岩波家の養子となり、庄右衛門といった。養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚に引き取られる。

諏訪市の 「文学の道公園」 に曽良の句碑がある。



袂から春は出てたり松葉銭

延宝4年(1676年)正月、曽良28歳の句。

「曽良」の俳号が初めて使われた句だそうだ。

 伊勢長島の地を流れる木曽川と長良川から「曽良」という俳号が付けられたともいう。

 天和3年(1683年)夏、谷村藩の国家老 高山麋塒 宅で芭蕉に師事した。曽良35歳の時である。

深川の 芭蕉庵 近くに住み、芭蕉の世話をした。

曽良何某、此あたりちかくかりに居をしめして、朝な夕なにとひつとはる。我くひ物いとなむ時は柴をくぶるたすけとなり、茶を煮夜は来たりて軒をたゝく。性隠閑を好む人にて、交(まじはり)(こがね)をたつ。ある夜雪にとはれて

きみ火をたけよき物見せん雪まろげ
   ばせを


 貞亨4年(1687年)、宗波と共に「鹿島紀行」の旅に同行。

いまひとりは、僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にも渡りぬべく、門より舟に乗りて、 行徳 といふところに至る。舟をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力をためさんと、徒歩よりぞ行く。


 元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅に同行。

曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。

『奥の細道』

 8月5日、曽良は 山中温泉 で芭蕉と別れ、伊勢へ先立つ。

 曾良は腹を病て、いせのくに長島といふところにゆかりあれば、先立て行に、

行き行きてたふれふすとも萩の原  曾良

と書置たり。行もののかなしみ、のこるもののうらみ、雙鳧(そうふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、

けふよりや書付消さむ笠の露

『奥の細道』

「芭蕉と曾良の別れ」の像


 8月5日、 全昌寺 に泊まる。

曾良の句碑


終夜(よもすから)秋風きくやうらの山

 8月9日、敦賀に到着し、 金ヶ崎 を訪れた後、船で色の浜に赴いて 本隆寺 で1泊、翌10日、 常宮 に詣で、更に 西福寺 に参詣。

 9月2日、芭蕉は 大垣 に着く。3日、曽良は伊勢から大垣へ芭蕉を迎えに来る。

芭蕉は「奥の細道」で愛用した紙衾を大垣の門人竹戸に与えた。

翁行脚のふるき衾あたへらる。記あり略之

  美濃
首出してはつ雪見ばや此衾
   竹戸

   題竹戸之衾

疊めは我が手のあとぞ紙衾
   曾良


 10月7日、曽良は伊勢長島から伊賀に滞在中の芭蕉を訪ねた。

   伊賀の境に入て

なつかしや奈良の隣の一時雨


 元禄3年(1690年)、曽良は上京。 素堂 は餞別の句を贈っている。

   曾良餞別

汐干つゞけ今日品川をこゆる人
   素堂


 元禄4年(1691年)5月2日、曽良は 落柿舎 に芭蕉を訪ねている。

二日

曽良 来リテよし野ゝ花を尋て熊野に詣侍るよし。

武江旧友・門人のはな〔し〕、彼是取まぜて談ズ。

くま路や分つゝ入ば夏の海
   曽良

大峯やよしのゝ奥を花の果


 元禄6年(1693年)、芭蕉は 杉風 、曾良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んでいる。

頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、

ほととぎす声や横たふ水の上

と申し候に、また同じ心にて、

一声の江に横たふやほととぎす

宮崎荊口宛書簡(元禄6年4月29日)

 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸 深川の庵 をたって郷里伊賀へ帰る。

曽良は小田原まで芭蕉を送った。

 先月二十五日の御状、小川氏より届けられ候て、拝見いたし候。小田原まで御送りの礼、島田より一通たのみ遣し候。相届き申し候や。貴様御帰りの日に御書付、道々も次郎兵衛と申しやまず候。箱根山のぼり、雨しきりになり候て、一里ほど過ぎ候へば、少し小降りになり候あひだ、畑まで参り、小揚に荷を持たせ候て、宿まで歩行いたし候て、下り三島まで駕籠かり、三島に泊り候。

河合曾良宛書簡(元禄7年閏5月21日)

小川氏は小川風麦。

 元禄13年(1700年)、曽良は芭蕉庵の翁七回忌で追悼の句を手向けている。

俤や冬の朝日のこのあたり


 宝永6年(1709年)、幕府の巡見使随員となり九州を廻る。

宝永六辛丑春

   筑紫紀行
   曽良

春に我乞食やめても筑紫かな

 旅人の名は残るはツ花
   素檗


宝永7年(1710年)5月22日、壱岐勝本で病死。62歳であった。

『曽良随行日記』は曽良本『おくのほそ道』とともに河西周徳に伝来した。

 元文2年(1737年)、 『雪満呂気』 (曽良遺稿)周徳編。周徳は曽良の甥。

 元文5年(1740年)、周徳は諏訪の 正願寺 に供養碑を建立。

 文化4年(1807年)、 藤森素檗 は曽良の百回忌を記念して 『続雪まろげ』 を刊行。

 天保11年(1840年)7月4日、田川鳳郎は下諏訪を訪れている。

曽良 ハ当地の産にして翁殊に憐ぶかく睦じかりけるが、翁しばらく滞杖有し比、発句に一篇の文を添残されたり。可惜(おしむべし)其家絶て、かの文のミ残れり。名づけて「雪丸げ」と呼び、此地の名物と成りて伝りけるハ世にしれる所也。


曽良の句

くりかへし麦のうねぬふ小蝶哉

花の秋草にくひあく野馬哉


鴬やうは毛しほれて雨あがり


古夜着も今朝疊なすしめ餝


しら濱や何を木陰にほとゝぎす


ほとゝきす待とる梅の茂り哉


浦風に巴をくつす村千鳥

病僧の庭はく梅のさかりかな


枯野塚もてなせけふの朝みそれ


三日月や影ほのかなる抜菜汁

晝からの客を送て宵の月

ならひ居て庭に月見る作男


涼しさや数の子ふやす滝の下


うき時は蟇の遠音も雨夜哉


動きなき岩撫子やほしの床


うき時は蟇の遠音も雨夜哉


すゞしさや此菴をさへ住捨し


しら濱や何を木陰にほとゝきす


向のよき宿も月見るちぎり哉


根の土を袂にはたくわかなかな


 昭和13年(1738年)、『曽良随行日記』が発見された。

 昭和18年(1943年)、山本安三郎が『曽良奥の細道随行日記』と題して翻刻した。

蕉 門 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください