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蕉 門

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山口素堂

『とくとくの句合』  ・  『山口素堂句集』

初号は信章。別号来雪。葛飾阿武に草庵を構える。葛飾派の祖。初代其日庵。

二世其日庵は 長谷川馬光 、其日庵三世は 溝口素丸

素堂 甲斐酒折産也、神職ノ人也。葛飾隱士、信章齊來雪、號山素堂、性巧俳句及詩歌而名品甚矣。享保元年八月十五日没。壽七十有五、法号廣山院秋巌素堂居士、碑面本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 寛永19年(1642年)5月5日、甲斐国巨摩郡上教来石村山口(現:北杜市白州町上教来石)に生まれる。

上教来石 に素堂の巨大な句碑がある。


目には青葉山ほとゝぎす初かつお

山口素堂先生出生之地

寛文初年に江戸に出たといわれる。

 延宝3年(1675年)、江戸へ下向した 宗因 を迎え、談林派に転向する。

 延宝4年(1676年)、芭蕉は素堂と両吟。

此梅に牛も初音と啼つべし
   桃青

 ましてや蛙人間の作
   信章

『江戸両吟集』

 延宝6年(1678年)夏、江戸を出立、西国下向の旅に赴く。肥後唐津で越年。

   西國下りの頃

淋しさを裸にしたり須磨の月


   此ごろの亀を

二万の里唐津と申せ君が春

『富士石』

 延宝6年(1678年)、『江戸新道』(言水編)刊。

   かまくらにて

目には青葉山郭公はつ松魚

甲府市の 天尊躰寺 に句碑がある。


目ニは青葉山ほとゝきすはつ松魚

 天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。翌年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒を頼って逗留。

 天和3年(1683年)9月、素堂は新庵の建築を願って「芭蕉庵再建勧化簿」作成。

第二次芭蕉庵完成。

   ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて

あられきくやこの身はもとのふる柏


芭蕉と素堂の付合がある。

枯枝に烏のとまりけり秋のくれ
   はせを

鍬かたけ行雰の遠さと
   素堂


 貞享4年(1687年)10月末、芭蕉は「笈の小文」の旅に出る。素堂は餞別の句を贈っている。

   芭蕉庵主しばらく故園にかえりな
   んとす。とめる人はたからを送り、
   才ある人はことばを送るべきに、我
   此二ツにあづからず。むかし、もろ
   こしのさかひにかよひけるころ、
   一ツの烏巾を得たり。これをあた
   へて、たからと才にかふるものな
   らし。
素堂 山子
もろこしのよしのゝ奥の頭巾かな


 貞亨5年(1688年)9月10日、素堂亭で「残菊の宴」を開く。

素堂亭

  十日の菊

蓮池の主翁、又菊をあいす。きのふは竜山の宴をひらき、けふはその酒のあまりをすゝめて狂吟のたはぶれとなす。なを(ほ)思ふ、明年誰かすこやかならん事を

いざよひのいづれか今朝に残る菊
   ばせを(う)


 元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は「奥の細道」の旅に出立。素堂は送別の句を詠んでいる。

西上人の其きさらぎは法けつきたれば、我願にあらず。ねがはくは花の陰より松の陰、寿はいつの春にても、我とともなはむ時

松嶋の松陰にふたり春死む
   素堂


 元禄3年(1690年)、 曽良 は上京。素堂は餞別の句を贈っている。

   曾良餞別

汐干つゞけ今日品川をこゆる人
   素堂


 元禄6年(1693年)5月29日、素堂 の発句で歌仙。

其不二や五月晦日二里の旅
   素堂

 茄子小角豆(ささげ)も己が色しる
    露沾

鷹の子の雲雀に爪のかたまりて
   翁


 元禄6年(1693年)10月9日、素堂亭で「菊園之遊」。

菊の香や庭に切れたる履の底


素堂・芭蕉・沾圃の三吟がある。

漆せぬ琴や作らぬ菊の友
   素堂

 葱の笛ふく穐風の園
   翁

鮎よハく籠の目潜る水落て
   沾圃


 元禄8年(1695年)8月11日、 「甲山記行」 の旅に出る。

 元禄9年(1696年)、芭蕉三回忌。

歎とて瓢(フクヘ)そ殘る垣の霜


 元禄10年(1697年)8月、 『陸奥鵆』 (桃隣自序、素堂跋)

 元禄13年(1700年)、芭蕉七回忌追善集 『冬かつら』 (採荼庵杉風編)。素堂は芭蕉庵の翁七回忌で、追悼7吟を手向ける。

 元禄14年(1701年)2月25日、素堂は上洛の途上島田の宿で「宗長庵記」を記す。

連歌の達人旧庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元につかへ、故ありてみづから髪を薙、華洛にのぼり種玉庵宗祇居士にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として、猶歌仙に人丸赤人あるがごとし。

 8月12日、上洛の途上再び島田に至り、「長休庵記」を記す。

仲秋の十二嶋田の駅にいたる。日はまだ高けれど、名をしおふ大井川の水にさへられ、はからざるに此所に旅寝す。つたへ聞く、宗祇居士は此郷よる出て、名をふるふ。五条義助といへる鍛士の祖族たりとぞ。母なん藤原氏なりける。偶如舟老人、かへらぬ昔をしたひて、一草庵をしつらふ。名つけて長休と号し故墳となして、往来の騒客をとゞむ。

 元禄15年(1702年)4月27日、素堂は 千代倉家 に立ち寄る。29日、御油へ。

四月廿七日 晴天 今晩七つ時分ニ、江戸山口素堂丈御下り、立寄被申候。今晩泊り被申候。

四月廿九日 晴天 今朝素堂御油迄御越。ちりふ迄駕ニて送ル。

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 元禄16年(1703年)、素堂は桑名の俳人五桐を訪ねているようである。

   尋五桐子

花にむすび麥のほにとく舎りかな


 元禄17年(1704年)3月13日、宝永に改元。

 宝永元年(1704年)4月7日、素堂は千代倉家に逗留。12日、桑名へ。

四月八日 晴天 昨晩素堂江戸より被参逗留。今日長寿寺ヘ同道申ス。

伊勢船を招く新樹の透間哉
   素翁

 かすむ気ハなふ晴々夏山
   知足

行先や恋にしてゐる郭公
   仝

留別

 花もないのにそやす浮草
   素

杖長に弐本丸木の橋かけて
   亀世

四月九日 晴天 弥惣右衛門なごや行。素堂此家ニて発句歌仙スル。

四月十二日 晴天 素道(ママ)桑名へ御越。宮迄かごニて送ル。朝餞別ニ。

此名残古郷も遠し時鳥
   素翁

 一つはなせば明やすき月
   知足

行先や恋にして居る時鳥
   仝

 花もないのにそやす浮草
   素翁

 一折是ニてはいかい有。

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 宝永元年(1704年)4月13日、知足は65歳で没。

 宝永6年(1709年)、 『菊の塵』 (園女自序、素堂跋)

 正徳2年(1712年)6月、在京。 俳諧千鳥掛』 (知足編)素堂序。

やつかれ折りふし在京のころにて、このおもむきをきゝ、折りならぬ千鳥のねをそへて、集のはしに筆をそゝぐのみ。


 正徳2年(1712年)10月8日、素堂は 千代倉家 を訪れ、9日、蝶羽と共に 笠寺 へ。

十月八日 晴天 今夕山口素堂下り一宿。千鳥がけノ序出来。一海咄来。山掃除スル。

江戸人も見よ此里の大根引
   てうウ
時雨ぬ亭ぞ猶面白き
   素堂

十月九日 晴天 素翁逗留。昼より松風、寝覚、呼続、笠寺、上野一見ニ同道スル。

塩焼日最一度見たし霜煙
   素堂
浦風や塩焼ぬ日も霜煙
   てうウ
浦の浜いつもあけぼの雪の雪の塩
   キ世
笠寺や夕日こぼるゝ雪の塩
   素堂
笠寺や凩着する木の葉蓑
   てうウ

十月十日 晴天 早朝素堂御立。神明迄送。

『千代倉家日記抄』(蝶羽日記)

 正徳4年(1714年)、 稲津祇空早雲寺 の宗祇墓前で剃髪。素堂は句を寄せている。

舊知青流子、去年冬のはじめ、箱根山早雲寺、宗祇師の墓所の前にて髪おろし、みづから名を祇空とあらためらるゝとなん。我聞、宗祇師は香をとめん爲に、髭をたしなみ給ふよし。

剃からは髭も惜まじかみな月
   素堂


享保元年(1716年)8月15日、葛飾で没。75歳。

上野谷中感応寺中瑞音院に葬る。

上野谷中の 天王寺 に位牌がある。

享保2年(1717年)8月、素堂の一周忌追善集 『通天橋』 刊。

安永4年(1775年)、 『山口素堂句集』 (蘆陰舎大魯閲)。

文化14年(1817年)10月、 芭蕉と素堂の句碑 を建立。



梅可香耳能つ登日濃出る山路か南
   はせを
(梅が香にのつと日の出る山路かな)

日能廻累世界を梅のにほひか南
   素堂
(日の廻る世界を梅の尓本ひか南)

愛知県犬山市の 尾張冨士大宮浅間神社 に素堂の句碑がある。



目には青葉山ほとゝぎす初鰹

素堂の句

年の一夜王子の狐 見にゆかん


目には青葉山郭公初鰹


大井川しづめて落るつばき哉


隱にして進むもあはれ三日の月


   甲斐か根にて

ほそ落の柿の音聞深山かな


雨の蛙声高に成るもあわれ也


南瓜やずつしりと落て暮淋し


秋風や蓮をちからに花ひとつ


我舞てわれに見せけり月の影


   諏訪湖春望

鴨の巣や不二の上こぐ諏訪の海

ゆふ立に燒石凉し淺間山


池に鵝なし假名書習ふ柳かけ


月ひとり柳散残る木間より

楽しさや二夜の月に菊添へて

椋の木のむく鳥ならじ月と我


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