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俳 人

内藤露沾

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 名は義英。 宗因 門下。別号傍池亭。遊園軒。遊園堂。日向 延岡 藩の初代藩主内藤政樹の実父である。

内藤對馬守ナリ。門人沾山・沾徳。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 明暦元年5月1日(1655年)、磐城平藩主内藤風虎の次男として生まれる。

 天和2年(1682年)、弟に後嗣を譲って、麻布六本木に退隠。

 貞享4年(1687年)4月8日、其角の母没す。露沾は五七の日追善会で追悼の句を詠んでいる。

卯花に目の腫れ耻ぬ日数かな


 貞亨4年(1687年)、芭蕉は『笈の小文』の旅に出るのに先立って露沾に句を詠んでいる。

   露沾公に申侍る

五月雨に鳰の浮巣を見に行む
   翁


 貞亨4年(1687年)、露沾は芭蕉が『笈の小文』の旅に出るにあたり餞別の句を贈っている。

   芭蕉庵主回郷

時ぞ冬芳野をこめし旅のつと


 元禄2年(1689年)、露沾公は芭蕉の『奥の細道』旅立ちにあたり餞別の句を詠んでいる。

月花を両の袂の色香哉
   露沾

 蛙のからに身を入る声
   翁


 元禄3年(1690年)、 路通 が陸奥に旅立つにあたり、露沾の餞別の句がある。

   路通餞別

花に行句鏡重し頭陀嚢
   露沾

 虻も胡蝶もすゝむはるの日
   路通


 元禄4年(1691年)1月29日、露沾公邸で月次興行。

 元禄5年(1692年)、 支考 の奥羽行脚にあたり句を詠んでいる。

   釈支考、奥州の間を経て、岩城に
   も行脚すべきよし聞へ(え)ければ、

年経ても味をわするな岩城海苔
   露沾


芭蕉は露沾公を訪れて句を詠んでいる。

  露沾公にて

西行の庵もあらん花の庭
   芭蕉


年次不詳。 『芭蕉翁發句集』 には「元禄六酉年」とある。

 元禄6年(1693年)5月29日、 素堂 の発句で歌仙。

其不二や五月晦日二里の旅
   素堂

 茄子小角豆(ささげ)も己が色しる
   露沾

鷹の子の雲雀に爪のかたまりて
   翁


 元禄8年(1695年)3月、江戸溜池を去り、磐城平の高月邸に隠棲。

須賀川の 相楽等躬 とも親しかった。

「勿来八景」を選定。

勿来の関跡 に「勿来八景句碑」がある。


   関田晩鐘   露沾

音淋し松山寺の蟾の暮

   小濱夕照   露沾

一しくれ夕日の干やすや鰈網

 正徳4年(1714年)、稲津祇空は早雲寺の宗祇墓前で剃髪。

   稲津氏青流、近き比より身をやす
   ふし、豆州早雲寺宗祇の古墳に至
   りて、落髪のよし聞侍りければ

髭の香に移れ野服の霰笠
  露沾


 享保元年(1716年)、祇空は潭北と奥羽行脚の帰途露沾を訪ねている。

岩城平につく。沾梅へ案内しけれは、いかに遲かりつると長屋わたりて足をとゝむ。

露沾公たひたひ佳席あり。湯本三箱宮

箱石にくたすか霧の湯の匂ヒ

月をのせて引湯あまたに酔賞し
    北


   岩城平へ着
      露沾 公にて御会

平けく山や児鷂の其きほひ


 享保2年(1717年)8月、山口素堂の一周忌追善集 『通天橋』 (雁山編)刊。露沾序。

 享保5年(1720年)、 『他むら』 (貞佐・潭北編)。桑々畔貞佐・百華荘潭北序。傍池亭露沾跋。

 享保7年(1722年)、 『北國曲』 (巻耳撰・燕説補)。遊園堂露沾序。

享保18年(1733年)9月14日、79歳で没。

着つつみん錦の山路西の空

鎌倉市の 光明寺 に墓所がある。

 延享4年(1747年)、陸奥国磐城平藩の第六代藩主内藤政樹は陸奥国磐城平から日向 延岡 に転封された。政樹は露沾の子で俳号沾城。

露沾の句

春も来ぬ南の誉星の道


月影に梅くづを(お)るゝ光かな


梅咲て馬の面出す萱屋哉


いかにとも山路の菊のあぶら筒


松明ぬ陸(ママ)月の新樹門の秋


雲晴るゝ後朝分けて月見哉


初午や温石捨ん恋ころも


木ましのふ斧の恩有栗月夜


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