このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』ゆかりの俳人
相楽等躬
通称伊左衛門。初号、乍憚また乍単斎。藤躬。須賀川の駅長を務めたという。
寛永15年(1638年)、須賀川に生まれる。
貞亨4年(1687年)3月27日、
大淀三千風
は須賀川に着く。等躬は
『
俳諧
荵摺』
に三千風の句を望んだ。
○此等躬丈、しのふすりといふ俳書をえらひし。予にも發句を望み給ひしまゝに、二句いひ置し
○九十日花さへあるを旅の暮
同所相樂氏
等 躬
○しのぶすりのはしに序
(ついで)
やかいつはた
『日本行脚文集』(巻之七)
元禄2年(1689年)4月22日(陽暦6月9日)、芭蕉は須賀川に至り、等躬宅に7泊している。
一 廿二日
須か川、乍単斎(相楽等躬)宿、俳有。
『曽良随行日記』
同年、
『
俳諧
荵摺』
成立。
元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川に2泊。
須ヶ川に二宿、等躬と両吟一卷満ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正
(いちのかみ)
秀陳饗応。
[無都遅登理 五]
長松院
に等躬の句碑がある。
あの辺はつく羽山哉炭けふり
岩城平の城主
内藤露沾
とも親しかった。
勿来の関跡
に「勿来八景句碑」がある。
佐糠落雁 等躬
夜は分る孤雁なるらん捨小舟
正徳5年(1715年)11月19日、平城で病死。78歳の時である。
長松院
に墓がある。
萬年山長松院
享保元年(1716年)5月3日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上須賀川に着く。
三日、須加川につく。等躬 といふ誹のすきもの去年身まかりぬ。息甚蔵を尋しに岩城へ行て逢す。追悼の句をなけて通る。
橘の香や影沼の一おしみ
藤の実の山は浅きにいつれ隈
北
『烏絲欄』
大田原市の
浄法寺桃雪邸跡
に連句碑がある。
芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける
雨はれて栗の花咲跡見かな
桃雪
いづれの草に啼おつる
等躬
夕食くう賤が外面に月出て
翁
秋来にけりと布たぐる也
ソラ
等躬の句
常陸帯祭
桜子の迷ふや常陸帯祭
『稲莚』
迚も死ぬ身なら難波の枯野哉
『後の旅』
浅香山影や蚊遣の細明り
『陸奥鵆』
肌脱がぬ船頭もなしむら時雨
『継尾集』
鳥雲にうんうんとてぞ花の岫
『
俳諧
千鳥掛』
今以その八重垣を牡丹かな
『青かげ』
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください