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蕉 門

八十村路通
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近江大津の人。別号骰(とう)子堂。

路通不何許者。不其姓名。 一見蕉翁。聽風雅。其性不實輕薄而長遠師命。飄泊之中著俳諧之書

『風俗文選』 (許六編)

路通 始乞食、翁ノ爲俳人ナリ、終大坂高さふ後家トナリ諸門人ニ絶交ス。翁、俳諧捨ズバ交ルベシトナリ。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 慶安2年(1649年)、三井寺に生まれる。

 天和3年(1683年)頃、路通は筑紫を行脚したようである。

   つくしのかたにまかりし比、頭陀に入し五器
   一具、難波津の旅亭に捨しを破らず、ななと
   せの後、湖上の粟津迄送りければ、是をさへ
   過しかたをおもひ出して哀なりしまゝに、翁
   へ此事物語し侍りければ

これや世の煤にそまらぬ古合子
   風羅坊


吉備津神社 に句を奉納している。

みあかしもこほりて寒し鳩の声


 貞亨2年(1685年)春、芭蕉に入門。

 元禄元年(1688年)12月、路通は芭蕉庵の隣にいたようだ。

襟巻に首引入て冬の月
    杉風

火桶抱ておとがい臍をかくしけり
   路通

此作者は松もとにてつれづれよみたる狂隠者、今我隣庵に有。俳作妙を得たり。

尚白宛書簡(元禄元年12月5日)

『奥の細道』では、芭蕉は最初同行者として路通を予定していたそうだ。

 元禄2年(1689年)8月21日、芭蕉は敦賀まで出迎えに来た路通を伴って大垣に入った。

   翁の行脚を此のみなとまで出で
   むかへて、

目にたつや海青々と北の秋

『俳諧世説』(巻之五)

是迄奥州之方北国路ニ而、名句とおぼしき句共
数多雖之略之。就中頃日伊吹眺望といふ
題にて、

そのまゝに月もたのまじ伊吹山
   芭蕉

おふやうに伊吹颪の秋のはへ
   路通


元禄2年(1689年)8月21日、 『荊口句帖』 路通序。

元禄3年(1690年)、路通は陸奥に旅立つ。

芭蕉は路通に餞別の句を贈っている。

   路通がみちのくに赴くに

草枕まことの華見しても来よ

露沾の餞別の句がある。

   路通餞別

花に行句鏡重し頭陀嚢
   露沾

 虻も胡蝶もすゝむはるの日
   路通


路通は 羽黒呂丸 を訪ねた。

酒田も訪れているようだ。


 骰子堂
夏の日や一息に飲酒の味
   路通

 夜雨をつゝむ河骨のはな
   不玉

手心をほそき刀に旅立て
   呂丸

 秋は子どもに任せたる
   不撤

出屋敷の後はひろき月の影
   玉文


元禄4年(1690年)、江戸を立つ。

   旅立ける日も吟身やむことなふ(う)して

いでや空うの花ほどはくもる共
   路通

 句の上おもへはるばるの旅
   其角


元禄4年(1690年)、 俳諧勧進牒』

路通は 園女 を訪れている。

   伊勢の園女にあうて

雲の嶺心のたけをくつしけり
   路通

『薦獅子集』 (巴水編)

元禄4年(1690年)9月3日、路通の発句で歌仙を巻く。

   元録四年九月三日

      歌仙

うるハしき稲の穂並の朝日哉
 路通

 雁もはなれす溜池の水
   昌戻

白壁のうちより碪打そめて
   翁

 蝋燭の火をもらふ夕月
    正秀

頼れて銀杏の廣葉かち落す
   野徑

 すかりて乳をしほるゑのころ
   乙州

   此一巻ハ路通の真筆にして越中魚津
   倚彦と云る者の家珍なりしを予行脚の頃
   写し来りて今爰に現す


路通の真筆が越中魚津の倚彦に伝わる。

 元禄5年(1692年)夏、筑紫各地に漂浪の旅をする。翌年の夏に帰る。

芭蕉は路通を勘当したという。

○路通は故翁の勘当し給へるよし、いと不審におもひしが、さにあらざる事、曲翠への文のはしに見えたり。

一路通事、大坂にて還俗致したると事、致推量候。其志三年以前より見来る事に御ざ候へば驚に不足候。とても西行・能因がまねはなるまじく候へば、平常の人にて候。常の人がつねの事をなすに、何の不審か御座あるべくや。拙者におゐ(い)ては不通仕まじく候。俗となり候ても、風雅のたすけになり候はんは、むかしの乞食よりまさり可申候。

二月八(ママ)
   はせを

曲翠様
   此ふみ今大津にあり


 元禄7年(1694年)、加賀に入る。

   はしめて加州に入て

白山の雪はなたれて櫻麻


 元祿8年(1695年)1月12日、芭蕉の百ヶ日追善忌に 「尾花塚」 を建立。



「芭蕉翁」の文字は路通の筆と伝えられる。

 元禄8年(1695年)8月15日、路通は金沢の宿坊に 浪化 を訪ねている。

   名月

随分と星も出けりけふの月
   仝

   良夜は金沢にして遇り旅坊の
   荒たる境内を打めくりて

名月に屋敷どなりの囃かな
   浪化


元禄8年(1695年)、 『芭蕉翁行状記』 刊。

元禄9年(1696年)、 『桃舐集』 (路通撰)刊。

元文3年(1738年)7月14日、90歳で没。

路通の句

肌のよき石にねむらん花の山


肌のよき石に眠らん花の山


いねいねと人にいはれつ年の暮


いねいねと人にいはれつ年のくれ


湖も広しくゐ(ひ)なの秋の声


芭蕉葉の何になれとや秋の風


賑にちまきとくふり座敷中


いける身はしなの蓮より丹後鯖


   ふしみ夜舟にて

ぼのくぞ(ば)に雁落かゝる夜さむ哉

うつくしう夜が明也淡路嶌


うくひすに口きかせけり梅の花


ほしさうに笑ふてかゝる牡丹哉


雜煮ぞと引起されし旅寐哉


   翁の画に賛す

花鳥に並ふ柏のかれ葉哉


芭蕉葉は何になれとや秋の風


衣かへや白きは物に手のつかす


梅に来てをのをの梅の匂ひかな


元朝や何となけれと遅さくら


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