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八十村路通

『芭蕉翁行状記』(路通撰)


元禄8年(1695年)、刊。

路通は八十村氏。近江大津の人。元文3年(1738年)没。

 芭蕉の略歴、最後の旅の模様、終焉、追憶などを記し、追善の連句や追悼の発句などを添えたもの。

 その後終焉の砌、門人路通三井の精舎にこもりて、湖上の月に觀得し、古翁行状記一帖を著す。そのおもむき、生産をあけ獲麟に至る。その文尤悲むへし。その間にあらはれたる句々を正し、かくれたるは備さに翁に尋問ひしをこゝに記せり。猶枯尾華に洩たる追福の誹諧、いたみの句、ことことく載る所也。

行状記

芭蕉老人本土(ウブスナ)は、伊賀の國上野にあり。左右なきものゝふの家の子にて侍りしか、わかゝりし程頼む方にわかれ、同し道にとおもひ定めけれど、天が下掟きはまりてはからひがたく、親はらからのうきめひとかたならねば、かひなき命の露をかけて、武藏野國の廣きあたりには、まぎれ行業もやあらんと、中比より住所を江戸に求む。兼て和く道に心さしふかく、誹・諧風・月に遊ぶ。此交り常にすなをなれば、道高く行はれて、ふもとの草分入ひとしげく、手にすがり足にまとふ輩(トモカラ)ちまたにみつ。徳いたれるに隨ひ、身いよいよ靜也。芭蕉の陰に庵して、はせをの翁とぞ呼れける。されば此十とせあまり、荒増を旅の心にもてなし、生涯を頭陀にはたさむとす。厚く心をかよはし、深く情を運ふたぐひは、たがひのわかれ折々にかなしめども變化の理にさとくしてさすがに心をとゝめ給方なし。月花の莚かはるかはるあらためて、風興日々にあまる。元禄七年翁の齡五十一、老もなかばの春を迎へ、雜煮の餅むまく覺へ、淺漬も齒にしみわたるなれは、としの名殘もちかづくにやと、門人 正秀 がもとへ、文のはしに書て送り給。深川の桃梨散過れば、卯の花雲立わたるきゝにかんこ鳥の一聲一聲そゞろに、ものなつかしき方もおほしとて、おもひ立旅心しきりにて、五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく

    麥の穂を便につかむわかれかな    翁

箱根の關越て

    目にかゝる時やことさら五月富士

しどけなく道芝にやすらひて

    どむみりとあふちや雨の花曇り

島田は、塚本氏杉本氏なといひて久縁音信馴し方あれはとて、おほつかなき五月の雲をはらす。

    五月雨や雲吹落す大井川

名古屋にて

    世を旅に代かく小田の行戻り

是より伊勢路にかゝり、 古郷 へ立寄、したしきかたへもいついつよりなつかしみ、會も數有、日數もへぬ。また江上 木曾塚の庵 は、わすれかたき所なりとて、宇治山田伏見の里をへて立いられける。膳所松本のあたりには、むつましき方あまたなれは、心よけにてとゝまり給へとも、六月の照日いとゝ照そひて、宵々の蚊の聲もしきりなるにあきて、嵯峨野の方に趣き、おかしき人の澁團(シブウチハ)など借て、逍遥せられける。

    六月や嶺に雲置あらしやま

丹野か好めるにまかせて、骸骨の繪讃に骨相觀の心を前に書て、

    稲妻や顔の所かすゝきの穂

故郷に立越。盆の間はなき人の名なとくり出し、風雅に心深き亡者、仙風、嵐蘭、コ齊、落梧、杜國など衣の袖もぬるゝばかりかぞへ給。其日先祖の廟にて

    一家みな白髪に杖や墓参り

このたびは、何もあまたにてむかしより書捨の反古艸紙ともあらため、後の形見とにや、奥の細道白馬集と名づく。おなし氏のしたしき方に、あづけ置たまふ。

菊月のはしめつかた、難波より迎へしきりなれば、音信(ヲトヅレ)もだしがたしとて 惟然支考 なとうちつれだちて、奈良の京へかゝり、爰にもひと夜あるじまうけしけり。

    ひいとなく尻聲悲し夜の鹿

    菊の香や奈良には古き佛達

とかくして浪華に入たまふ。その日は平野あたりよりほのくらくて、たどたどしくや侍りけむ

    きくにいでゝ奈良と難波は薄月夜

浪花の人々師をむかゆるそのきは、いと珍しく、翁見むとて何くれかくれもてはやす程に、しつかなる席も侍らず、天王寺住吉の濱なと心にまかせてあそひ給ふ。

    此秋はなむてとしよる雲に鳥

住吉にて

    升買て分別かはる月見かな

八日の夜伽の人々に賀の句を望たまふ。翁も病中の吟あり

    旅にやんで夢は枯野をかけまはる

時つもり日移れともたのもしげなく、翁も今はかゝる時ならんと、あとの事をも書置。日比とゞこほりある事ともむねはるゝばかり物がたりし偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰は東西のちまたさゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便わづらはしからし。乙州敬して約束たがはしなどうけ負ける。終に十二日正念にして靜まり給。誠三十年の風雅難波江の芦の刈寢の夢とうせ給ひけむ。かがてとりしたゝむなしきからを高瀬に乘ひろからぬ舟の中、つきそふものはおほけれど、心ばせをしたふばかりにて古郷恩愛のしたしみにはあらず、只この比のつかれに臥て、眠がちなるも有。折々頭もたげて、すごく澄る月の色、苫のはづれにけうとく、野寺の鐘の聲はあらしにつゝまれて、ふきまはす風の間に鳴出たるも、さすがなり。其夜臥高・昌房・探志など行ちがひて、浪華に下る。伊勢よりはしたしき人大和路を出る翁の病臥たまふ旅亭にたづねつき、其骸(カラ)にさへ遅れまいらせ空にかなしみながら別行けり。扨ひつぎは逢坂の關を越し晝過の比は粟津の 義仲寺 にかき入ける。やつがれは此三とせ折々のたかひめに翁心障(ザハリ)侍りて、音信も遠さかり侍りぬ。されど昔の哀みふかき社、かへつて惡みもかくつよからんとおもひながして、やをら憂世にまかせうち暮しぬ。然るを定光坊實永阿闍梨かゝりなりとて翁の方なだめまいらせ、此度萬罪ゆるし給へども、外の障りなど侍れば面むきうときさまにて、夫よりはやつがれ、加賀の國へ旅たちける。こそにもむつまじき方ありて、日かずへぬ。此度翁遺言の次に餘命たのしみなからん路通か怠り努(ユメユメ)うらみなし。かならずしたしみたまへ。その座をのをの聞あへり。いまさらのくやしさのみそせんかたなき。やつがれはせめて一七日の法事にそ參あひぬ新しき塚の前、樒(シキミ)花筒ものあはれに聲もふるひながら、陀羅尼など唱へ涙押へて

   ひからかす袖や小春の死出山

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