このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


麦の穂をたよりにつかむ別れかな

川崎市川崎区の京浜急行八丁畷駅は旧 東海道 川崎宿のはずれにある。


川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より)


七夕の渡り初けり女夫(めをと)橋    馬泉


 文化2年(1805年)11月17日、大田南畝は長崎から江戸に入る前日川崎宿に泊まる。

川崎の宿を藤右衛門といふ。いぶせきやどりなり。野村氏の甥柳屋長二郎などむかひに出來れり。


 嘉永4年(1851年)4月8日、 吉田松陰 は河崎宿に泊まっている。

 一、八日 晴。卯前、藤澤を發す。戸塚・保土谷・神奈川を經て、午後河崎に抵る。藤澤より河崎に至る、皆代官青山録平の管する所なり。戸塚・保土谷の間は相武の界なり。但だ未だ其の在る所を詳かにするを得ざるのみ。


今は面影も残っていない。

旧東海道沿いに芭蕉の句碑があった。


芭蕉の句碑

麦の穂をたよりにつかむ別れかな

 俳聖芭蕉は元禄7年(1694年)5月、江戸深川の庵をたち、郷里伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある

麦の穂をたよりにつかむ別れかな

の句にたくしました。

 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の10月、大阪で、

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

という辞世の句をのこし、51歳の生涯をとじました。

 それから130余年後の文政13年(1830年)8月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。

 昭和59年10月

川崎市教育委員会

  桜井梅室 は加賀金沢の人。文化4年(1807年)、京に出る。 田川鳳朗 とともに「天保の三大家」の一人。

嘉永5年(1852年)、84歳で没。

屋内の句碑


麦の穂をたよりにつかむ別れかな

出典は 『蕉翁句集草稿』

詳しい説明が書いてあった。

麦の別れ

 元禄7年(1694年)5月11日(現在の6月下旬)に俳人松尾芭蕉が江戸 深川の庵 をたって郷里伊賀国 拓殖 庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を詠みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は

麦の穂をたよりにつかむ別れかな

と返歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。

 川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり、街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張りの掛茶屋ができ、酒や一膳飯を売っていました。

 芭蕉はこの年の10月大阪で亡くなったので、これが関東での最後の別れとなりました。

芭 蕉 の 碑 保 存 会
川崎史話小塚光治著より抜粋

『芭蕉句選』 に「麥の穂をちからにつかむ別れかな」とある。

『芭蕉翁行状記』 (路通編)には「品川の驛」とある。

五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく

麥の穂を便につかむわかれかな
   翁

『芭蕉翁行状記』

『續猿蓑』 に荷兮の送別の句がある。

元禄七年の夏、ばせを翁の別を見送りて

麦ぬかに餅屋の見世の別かな
   荷兮

荷兮は 『阿羅野』 の編者。

『炭俵』 には利牛、 野坡岱水 の送別の句がある。

   翁の旅行を川さきまで送りて

刈こみし麦の匂ひや宿の内
   利牛

   おなじ時に

麦畑や出ぬけても猶麦の中
   野坡

   おなじこゝろを

浦風やむらがる蠅のはなれぎは
   岱水

野坡・利牛は『炭俵』 の編者。

曽良 は小田原まで芭蕉を送った。

山口誓子 は、この句について書いている。

 道ばたの麦畑には穂が出ていた。芭蕉はその穂をつかんで、握りしめた。このたびは西国へと志していたから、前途のことを思うとつい指に力がこもるのだった。それに、芭蕉はすでに老いを感じていた。行方知れぬ身はかすかな麦の穂にもすがりたい思いだった。

 別離の句として景情ともに備わっている。私はこの句が好きだ。


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