このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2012年
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史跡
「福地城跡」
〜碑巡り〜
JR関西本線
柘植駅
から東海自然歩道を行き、
史跡
「福地城跡」へ。
史跡
「福地城跡」
福地城は西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り周囲には、館跡、塀跡が現存する伊賀随一の中世の城跡である。昭和43年3月に県史跡に指定された。
城主は福地伊予守宗隆で、「満済准后日記」に日置、北村と共に柘植三方と呼ばれ、当地方の国人であった。
芭蕉翁の先祖は福地氏の一族であるので、この城跡を芭蕉公園と名付け句碑及び生誕碑を建て後世にとどめることにした。
『芭蕉翁全傳』
に「
正保元甲申の年、此國上野の城東
赤坂の街
に生る。
」とある。
『奥細道菅菰抄』(梨一著)の「芭蕉翁伝」に「
祖翁は、伊賀
ノ
国拓殖郷の産にして、弥平兵衛宗清が末裔。
」とある。
『芭蕉翁正伝』
(竹二坊著)に「
そもそも芭蕉翁桃青は、伊賀の國阿拜の郡拓殖むらの人にして俗名松尾半七と云
」とある。
明治43年(1910年)、「福地城跡」は芭蕉公園と名付けられた。
「福地城跡」入り口の左に芭蕉の句碑があった。
そばはまだ花でもてなす山路かな
出典は
『続猿蓑』
(沾圃編)。
この句は翁の門弟伊勢の斗従が9月に伊賀の山家に芭蕉翁を訪ねられし時のあいさつの句。
石段を上って行くと、途中に猩猩袴
(しょうじょうばかま)
が咲いていた。
「福地城跡」に「芭蕉翁生誕之地」碑があった。
昭和43年(1968年)11月12日、伊賀町芭蕉翁顕彰会建立。
俳聖芭蕉は正保元年上柘植松尾儀左衛門宗住の次子として生まれた。平宗清の宗裔柘植七党に族した名家である。ことし生誕三百二十五年を迎え、中頃の祖福地氏ゆかりの城址に碑を建て、ながくその高風を偲ぶよすがとした。
「福地城跡」に芭蕉の句碑があった。
古さとや臍の緒に泣くとしの暮
出典は
『笈の小文』
。
明治26年、芭蕉翁二百年忌の記念事業として、この句碑を建立。この句は貞享4年暮の作。2度目の故郷入りの折の述懐句で、芳野紀行に載る。揮毫は東京住、旧派の第一人者其角堂七世晋永機翁(当時80才)による。柘植に来駕。宿の亀屋にて書かれた。
萬壽寺
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