このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

蕉 門

indexにもどる

志太野坡

『野坡吟艸』

 越前出身。両替商 三井越後屋 (現在の三井住友銀行)の番頭。竹田弥助。別号野馬・樗子。浅生庵。風羅堂。高津野々翁。

野坡者。越之前州人。生商家。居武江戸。蕉門之學者也。一遊西海其所居。隨師得炭俵之撰號

『風俗文選』 (許六編)

 貞亨4年(1687年)、孤屋・ 其角 と歌仙興行。

啼々も風に流るゝひばり哉
   孤屋

 烏帽子を直す桜一むら
   野馬

山を焼有明寒く御簾巻て
   其角


 貞享4年(1687年)10月末、芭蕉は「笈の小文」の旅に出る。野馬は餞別の句を贈っている。

朝霜や師の脛おもふゆきのくれ


 元禄6年(1693年)、芭蕉と野坡の両吟がある。

   ばせを庵にて

寒菊や小糠のかゝる臼の傍
   翁

提げて賣行はした大根
   野坡


 元禄7年(1694年)、芭蕉と野坡との両吟歌仙がある。

むめがゝにのつと日の出る山路かな
   芭蕉

 處々に雉子の啼たつ
   野坡


五人ぶちとりてしだるゝ柳かな
   野坡

日より日よりに雪解の音
   芭蕉


 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の庵をたち、上方へ最後の旅する。門人たちは 川崎宿 まで送り、送別の句を詠んでいる。

川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より)


   翁の旅行を川さきまで送りて

刈こみし麦の匂ひや宿の内
   利牛

   おなじ時に

麦畑や出ぬけても猶麦の中
   野坡

   おなじこゝろを

浦風やむらがる蠅のはなれぎは
   岱水


同年6月28日、『炭俵』(野坡・孤屋・利牛共編)刊。

芭蕉自筆の 『奥の細道』 は、野坡が芭蕉から譲り受けたそうだ。

同年10月12日、芭蕉没。

 元禄8年(1695年)、 許六 ・利牛と三吟歌仙。

   参 吟

秋もはや鴈おり揃ふ寒さ哉
   野坡

 藁を見てからかゝる屋普請
   許六

暮の月宿へはい(ひ)れば草臥て
   利牛


 元禄8年(1695年)、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌。 許六 から芭蕉の画像を贈られる。

   亡師一周忌に手づから画像を写して、
   野坡 に贈て、深川の什物に寄附す。

鬢の霜無言の時のすがたかな
   許六


 元禄9年(1696年)、野坡は 土芳 を訪ねる。

   いかにて

やま越てちかつき顔や初さくら


 元禄11年(1698年)、 惟然 は北陸から東北を旅して江戸に入る。都に帰るにあたり、野坡は送別の句を詠んでいる。

送惟然子

去年は都の花にかしらをならべ、よめ菜・つくづくしを摘て語り、今年東武の余寒はおなじ衾を引張、雲雀・鶯に句をひらふ。


 江戸
菜の花や浮世は去年の秬(きび)のうね
   野坡


 元禄11年(1698年)、江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ねる。11月、長崎に到着。

   筑前の國へはじめておもむきて

早稲の香や溜めてこぼす松の風


 元禄12年(1699年)、芭蕉の七回忌に野坡 の撰文で長崎一ノ瀬街道に 「時雨塚」 を建立。



芭蕉翁之塔

 元禄13年(1700年)、箱崎の俳人哺川は 枯野塚 を建立。野坡書。



芭蕉翁之墓

 元禄14年(1701年)7月、長崎を去り、江戸へ。途中で 去来 を訪ねる。

 元禄15年(1702年)10月頃、井筒屋安右衛門伊藤佐越方に来留。佐越は野坡の門人となる。

 元禄15年(1702年)11月末、豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留。日田で越年。

   ふんこの山中に老の春をむかえ侍りて

沙汰もせす此山中の歳ひとつ


 元禄16年(1703年)2月、 『すき丸太』 (佐越編)野坡序。

 元禄16年(1703年)3月12日、哺川の十里庵で野坡送別の句会。

 元禄16年(1703年)、 『小柑子』 (野紅撰)刊。

 宝永元年(1704年)、越後屋を辞め、大坂に移住。

 宝永2年(1705年)、魯九は長崎に旅立つ。野坡は餞別の句を詠んでいる。

   津國 難波

  美濃の国の僧魯九西国のかた見んよしして尋られ
  しにも一度通りたる所もあれハ有増教えぬ
  実雪のふる日ハ寒くこそあれと聞へ侍るとをり
  西海の浦つたひ衣ハ汐風に吹ちゝめられ笠は
  背にはつれそほふる雨に日もくれかゝりてしらぬ道
  をとをとをとあゆミゆかむさまもおもひやられて

道もよしかつえしうらハ若和布時
 竹田弥助
 野坡


 宝永5年(1708年)3月末、筑紫行脚に出立。4月1日、黒崎水颯亭。4月半ばに吉井の素児亭に到着。

 宝永7年(1710年)10月11日、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙興行。

   祖翁十七回忌筑前國にて

口きりや峰のしぐれに谷の水


 正徳4年(1714年)春、凡兆没。

   凡兆阿圭子を悼

行春や知らば斷べき琴の糸


 正徳4年(1714年)8月、大風に庵を吹き破られる。

   葉月九日の大風に、草菴を吹破ら
   れて

我上に牽牛澄り中の秋


 正徳6年(1716年)2月13日、露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる。6月22日、享保に改元。

  居士
雲水を鳴や雲雀の三ツ鐡輪

 顔はほかめく酒に蕗味噌
   燕説

帳につく長屋の禮の春は來て
   野坡


 享保元年(1716年)、野坡は福山を訪れ、深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂を創設。芭蕉を一世とし、野坡は二世と称した。

 享保元年(1716年)冬、久留米の西与の許に足を留め、竹野郡塩足村の大庄屋塩足市山邸に長らく滞留した。

 享保2年(1717年)7月20日、 曲水 は不正を働く家老曽我権太夫を槍で殺害し、自らも切腹した。

   悼膳所曲水

籠舁はかるきを悔む霜夜かな


 享保3年(1718年)1月、 『初便』 樗野坡跋。

 享保3年(1718年)、野坡は筑紫行脚中に直方を訪れる。多賀宮神官青山文雄、直方藩士 有井浮風 が入門。

 享保4年(1719年)冬、塩足村の市山邸を訪ねる。

 享保6年(1721年)6月、熊本壺風亭に遊ぶ。8月、門人30余人に送られて熊本を去る。

   肥陽の門人三十余人を引て廓外に
   別るゝ

はげみ羽も風もれ多し老の鴈


 享保7年(1722年)8月16日、野坡は未雷と共に杷木の兎城を訪れたようである。

   葉月十六日は滄浪亭の名殘にして、
   住馴れし庵は新開地の杭にかゝり、
   杷木の兎城亭へ赴く、同行二人、未
   雷と我也。石櫃といふ宿、其右衛
   門かたに一夜の枕をもふけぬ。此
   間五里の山中也

十六夜や暫く遠し五里の里


 享保8年(1723年)8月3日、 正秀 は67歳で没。

   享保卯八月三日、正秀身まかりけ
   るを遅く聞て、京より申遣す

行かえり大津の日なし年のくれ


 享保9年(1724年)3月21、2日、難波市中大火事。農人橋ほとりの寓居類焼。

   彌生の末浪花の大火に、農人橋の
   假菴を逃除れて

風下のさくら侘しきけぶり先


 享保13年(1728年)、野坡は再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する。

   皿山ノ瀑布にて

投入て瀧見がほなり折躑躅


 享保13年(1728年)4月、直方から小倉に移り、程十亭に逗留。5月8日、程十亭を去って長門に赴く。10月3日、難波に帰着。

 享保13年(1728年)5月8日、 『門司硯』 (朝月舎程十撰)。浪華大津浅生菴野坡序。

且予かこのたひ肥筑の帰杖をとゝめ、三十余日寐食をともにし、終に門司硯の銘を切て諸刕にひろめ侍る。同行馬貞筆をおよかせ扁(編)集のあるしとさためぬ。この道さかりに躬恒・式部のものすきをしたへは、此硯のかはけることなく、筆の命毛全処の風雅もつのれよと、共に一派の風流を導キ、さつき八日馬貞と笠をともにして長門の国へ別れ侍るとて

片形の月をたよりや根付稲
   浅生


 享保14年(1729年)閏9月、野坡は上京。十三夜は風之の九十九庵にあった。

   洛の九十九庵にまかりし比、閏長
   月十三夜をもてなされて

冬や秋あきの冬しる十三夜


 享保14年(1729年)、芭蕉三十六回忌。

   古翁三十六回忌のこゝろを

三むかしや泣口すゝむ納豆汁


 享保15年(1730年)、 廬元坊 は西国行脚の途上、浅生庵を訪れる。

   難波の浅生庵を尋ねて、

花に実に目やなぐさめて夏畑
  里紅

二百里おくる蚊屋の初門
   野坡


 享保16年(1731年)2月7日、 支考 は67歳で没。

支考死ぬと先うこくなり萩の露


 享保19年(1734年)秋、野坡は風之を伴い赤間関に下り、小倉へ。風之は熊本に赴く。

 享保20年(1735年)、芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「 屋土里塚 」を建立。



 元文2年(1737年)9月13日、 洒堂 没。

   洒堂悼

我ひとり食の替出すしぐれ哉


 元文2年(1737年)10月10日、野坡は 風律 亭で歌仙興行。

 元文2年(1737年)閏11月17日、三原からの福山に移り素浅を訪れる。

 元文3年(1738年)3月25日、伊勢神宮参詣に出立。

   内外の神は子共ごゝろに押合て

何事の又詣ふでたしほとゝぎす


 元文3年(1738年)、浅生庵移転のため一時瓦屋町に移る。

   草庵普請すとて仮に瓦町にうつりて

いなつまやなれも浅茅の市茄子


 元文4年(1739年)4月5日、滄浪亭未雷没。

 元文4年(1739年)5月、 『ぬれ若葉』 (まん女編)浅生老人野坡野坡序。

 元文4年(1739年)5月、 凉袋 は瓦屋町の浅生庵を訪ね、入門。

 元文4年(1739年)、高津の新庵落成。瓦屋町より新庵に移る。

   かはら町の市中を出て、高津野に
   うつりて

裸身に笠着てすゞし菊の苑


 元文4年(1739年)9月13日、洒落堂三回忌。

   痰膈といふ病に臥て 洒落堂 の三
   回忌におくり侍る

新米も香を嗅ぐまでや佛並み

   

十三夜雨もつ雲の老が脉


 元文4年(1739年)10月12日、高津の新庵で芭蕉忌。

   己未十月十二日高津の庵に古翁を
   祭。此翁此津に病發り給ひぬ。我
   も今年病ひに臥して、生死の推敲
   もさだめがたく人に助け起されて

我を呼ぶ聲やうき世の片しぐれ


元文5年(1740年)1月3日、野坡は79歳で没。

門下に 建部凉袋湖白亭浮風 がいる。

 元文5年(1740年)4月14日、野坡の百カ日に 「如来塚」 開眼供養。



元文5年(1740年)5月頃、塩足市山らは野坡追悼の 「むすび塚」 を建立。



宝暦6年(1756年)、野坡十七回忌追善句集 『窓の春』 (浮風編)。

宝暦9年(1759年)、 『野坡吟艸』 (風之編)刊。

宝暦11年(1761年)、二十回忌に湖白菴浮風は 野坡の墓 を建立。



 明和元年(1764年)10月19日、多賀庵風律は田子の浦の帰途、淺生庵を訪れている。

難波津に淺生庵あり後に無名庵といふ野坡翁の住める所也懐旧

   ありの実に梨子にさまさま庵さひし


福山市の 王子神社 に野坡の句碑がある。


凍みちや梅は香もる風羅堂

大津市の 芭蕉道統歴代句碑 に野坡の句がある。



難波津や芦の葉に置く天の川

野坡の句

   寄梅恋

ふり袖のちらと見えけり闇の梅


冬空や雨もときれてむら雀


ぼんぼりとまだ日はのこる柳かな


女郎花側の旅寐やかゞ見やま


青葉若葉生衣につゝむ門司硯


女郎花例の旅寐やかゝ見山


   猶月影に頭陀の口をひろげて
   是ハ一とせ浪花の浅生庵にて

いらいらとしてハほろつく月の雨


この比の垣の結目や初しくれ


此ころの垣の結めや初しくれ


盆の月寐たかと門をたゝきけり


盆の月寐た歟と門をたゝきけり


かわらふく家も面白や秋の月


みそ塩をはなれきつてや秋の月

十六日夜の色をたとはば梅の花


蕉 門 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください