このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2009年

四天王寺〜芭蕉・野坡の墓〜
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大阪市天王寺区四天王寺に 四天王寺 (HP)がある。


推古天皇元年(593年)、聖徳太子が建立。

抑この四天王寺は、上宮太子の御草創にて、由來は太子傳記にくはしく見ゆ。まことに日の本最上の靈場にして、堂塔の壯嚴いふもさらなり

   何となくこゝろはうちやう天王寺われをわするゝありがたさには


六時堂


和宗 総本山である。

西行 は天王寺に参り、「亀井の水」を見て歌を詠んでいる。

   天王寺へまゐりて、龜井の水を見てよめる

あさからぬ契の程ぞくまれぬる龜井の水に影うつしつゝ


元三大師堂の隅に芭蕉と 野坡 の墓があった。


「浅生翁之碣」   「芭蕉翁之墓」

宝暦12年(1762年)、有井浮風建立。

記念集 『朱白集』 (浮風編)、刊行。

芭蕉・野坡の墓

 芭蕉翁の墓、野坡の墓ともに同型で龍岡の撰文があり、湖白菴浮雲が宝暦11年(1761年)、師の 野坡 二十回忌に建てたものである。

 浮雲は有井氏、幼名は新之助。軍治義保の名で筑前直方藩に仕えた武士だが、野坡の門に入ってからは芭蕉に傾倒し、武士を捨て、大坂に来て、医業で生計を立てながら、野坡門を継いだ。

 浮雲は「二翁の石碑を四天王寺の椎寺の傍らに置き、松葉塚、また二つ塚と呼ぶことにしたい。野坡の塚には俳人風之が師から頂いた神像を納めておく」との意を書き、

松葉とは散りての名なり二つ塚

との句を添えている。

 両墓の落成供養は宝暦12年4月で、そのあと浮雲は郷里に戻り、5月、61歳で病没した。

(『大阪史蹟辞典』より抄出)

「浮雲」は「 浮風 」の誤りであった。浮風の妻は諸九尼。

五重塔


 明和8年(1771年)10月、 加舎白雄 は四天王寺に参詣している。

   四天王寺

霜とくとく布月瓦に朝日さす


 寛政7年(1795年)3月27日、一茶は四天王寺に詣で句を詠んでいる。

廿七日、天王寺に詣。

   蝶一ッ舞台せましと狂ふ哉


 明治36年(1903年)7月26日、 長塚節 は四天王寺の塔に上る。

   二十六日、四天王寺の塔に上る

刻楷(きざはし)を足讀み片讀みのぼり行く足うらのしもゆ風吹ききたる

押照る難波の海ゆふきおくる風の涼しきこの塔の上

 明治40年(1907年)、 若山牧水 は郷里の坪谷から上京の途中で四天王寺を訪れている。

白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山

『海の声』

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