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志太野坡

『野坡吟艸』(風之・文下編)

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宝暦9年(1759年)、『野坡吟艸』(風之・文下編)刊。

額田風之は通称正三郎。志太野坡の門人。京都五条に住む。別号九十九庵。

延享4年(1748年)12月28日、61歳で没。

文下は風之の子。

      春之部

   持つたへたる幸の一軸あれば、賛
   を乞ふて、九十九庵の家珍とす

ほのぼのと鴉黒むや窓の春

   雪の降る日は寒くこそあれ
   花のちる日はうかれこそすれ

春たつや捨しはすてし世に出たり

   杷木の兎城六十九才にして、元日
   に身まかりけるを悼

初鷄はあくびのなみだ此のなみだ

    嚴嶌 明燈

明燈や殊に年立はじめの夜

   寄梅戀

ふり袖のちらと見えけり闇の梅

   丁部の端山に 祖翁の魂を仰と永
   く此道の榮を祈るのみ

凍道や梅は香もる風羅堂

    善導寺 へ趣く途中の吟

障らずに座頭過行柳かな

ほんのりと日のあたりたるやなぎ哉

   伊賀 土芳

山越へて近付顔やはつざくら

   京の 眞如堂 にて

涅盤(槃)會やさくらの里の人の榮(ハエ)

   惟然 房 去年は宮古の花にかし
   らをならべ、嫁菜・つくづくしを摘
   て語り、今年東武の餘寒はおなじ
   衾を引はり、うぐひす・雲雀に句を
   ひろふ。

菜の花やうき世は去年の秬(キビ)のうね

   佐越亭

はる雨や是もわかれん杉ばしら

姉者人を殘おほかる花見かな

   皿山ノ瀑布にて

投入て瀧見がほなり折躑躅

   直方にて

青疊晝は山くれすみれはら

    善導寺 にて

さくら花ほとけのしなも九色

   彌生の末浪花の大火に、農人橋の
   假菴を逃除れて

風下のさくら侘しきけぶり先

   藥師堂に首途の事などいのりて

花見とはおぼしめすなよ南無やくし

   よし野やま

世の中の花はふしぎよ芳野山

    凡兆 阿圭子を悼

行春や知らば斷べき琴の糸

見はせぬといふてだますか華ざかり

      夏之部

   蕉翁の旅行を 川崎 までおくりて

むぎ畑や出ぬけても猶麥の中

    水禪(前) に苔の花をとりて

蛭の印(カイ)われてひらつく苔の華

傘の我をかつら男ほとゝぎす

   未雷の悼をまん女へ申遣す日は灌
   佛なれば

むまれ子の佛をたのむなみだかな

   元翠悼

はな摘や人は六字を十七字

   内外の神は子共ごゝろに押合て

何事の又詣ふでたしほとゝぎす

   京都に上りて

啼癖になれほとゝぎす宵の内

   伊勢太神宮

春夏を内外に拜む若葉かな

   端 午

小坊主がひやりとさせし菖蒲かな

   豊前大橋の 安樂寺

箒木や掃目消る寺のあめ

    有井湖白 、官府へ歸るを馬のはな
   むけして

さし肩に羽織の風や今年竹

    やどり塚 にまふでゝ

夏木立實石碑の文字居り

    善導寺 の藪の井

藪の井や夏の一合は經のすみ

   無名庵は先師 木曾塚 の假名也。後
   鳥落庵といふべきなど有りし聞覺
   へ、 惟然 坊、此名をよべり。近き比
    洒堂 、無名庵の跡を立べきよしに
   て、禪家の僧に此庵を起さすべき
   よし、集をもよふし侍られけれど
   も、半途に身まかれるゆへこれも
   絶侍る。この号を難波に遷し、此
   度淺生庵を造り替たる事を幸とし
   て、無名庵高津野ゝ翁とけふより
   となへ侍るのみ

   入 庵

暑凉し庵はよしともあしくとも

   かはら町の市中を出て、高津野に
   うつりて

裸身に笠着てすゞし菊の苑

      秋之部

難波津や芦の葉に置く天の川

木犀の香はたなばたの追風歟

   深川畫賛 市山所持

芭蕉葉は野分してあり木曾の留守

    湖白

相蚊帳に秋の咄や片旅籠

   筑前の國へはじめておもむきて

早稲の香や溜めてこぼす松の風

秋もはや鴈下り揃ふ寒さかな

   肥陽の門人三十余人を引て廓外に
   別るゝ

はげみ羽も風もれ多し老の鴈

   葉月九日の大風に、草菴を吹破ら
   れて

我上に牽牛澄り中の秋

    嚴しま にて

三日月や闇に上たる鹿の角

明月や家賃の外の坪の内

   葉月十六日は滄浪亭の名殘にして、
   住馴れし庵は新開地の杭にかゝり、
   杷木の兎城亭へ赴く、同行二人、未
   雷と我也。石櫃といふ宿、其右衛
   門かたに一夜の枕をもふけぬ。此
   間五里の山中也

十六夜や暫く遠し五里の里

   住馴れし庵は新開地の杭にかゝり、
   東へ五十歩ばかり引庵するとき

庵差圖月はいづこに置くべきぞ

   和泉國 信田の森 をたづねて

葛の葉のむかしの森は庄屋裏

紅葉見や猿つくばいに御所女中

   洛の九十九庵にまかりし比、閏長
   月十三夜をもてなされて

冬や秋あきの冬しる十三夜

   文字が關

あだし野や錦に眠平家蟹

   病中の吟

しら菊や影と分べき月もなし

   痰膈といふ病に臥て 洒落堂 の三
   回忌におくり侍る

新米も香を嗅ぐまでや佛並み

   

十三夜雨もつ雲の老が脉

      冬之部

此ごろの垣のゆひめやはつ時雨

眞野は二度かた田は今や初時雨

    風律

竹に來て猶あしはやきしぐれ哉

   己未十月十二日高津の庵に古翁を
   祭。此翁此津に病發り給ひぬ。我
   も今年病ひに臥して、生死の推敲
   もさだめがたく人に助け起されて

我を呼ぶ聲やうき世の片しぐれ

   ばせを庵にまかりて

木の葉ちり雪降うへに散木の葉

   祖翁十七回忌筑前國にて

口きりや峰のしぐれに谷の水

   悼膳所 曲水

籠舁はかるきを悔む霜夜かな

    岱水 が新宅にて

生壁に疊も青き火燵かな

   大名の參会し給ふを、物のかげよ
   りふたりのぞきて

正客の行崩儀さぬさむさかな

   古翁三十六回忌のこゝろを

三むかしや泣口すゝむ納豆汁

   祖翁像讃 風之所持
   往昔深川芭蕉庵にまかりし比、冬
   籠り又寄添はん此はしら と承し
   に、物がたり申せし事の一句と成
   り侍りしを

冬ごもりけふは其角や参らめ

    洒堂

我ひとり食の替出すしぐれ哉

松風や此あかつきの雪のうそ

   太宰府奉納 願主 湖白

すゝはきや梅も御注連の寒替

   享保卯八月三日、 正秀 身まかりけ
   るを遅く聞て、京より申遣す

行かえり大津の日なし年のくれ

蕉門二世無名庵高津野ゝ翁の詠吟、一千余句を拾ひ集めて四季四冊となし、門人亡父風之一集を思ひ立しに、事ならずして身まかりぬ。其志を繼で梓にちりばめむとするに、手爾於葉の紛らはしきと、句帳に墨を引れしを暫く除きて、今九百卅余吟を顯はす。猶落たるを揚、捨れたるを拾ひて、後篇の望みあり。願くば同好子、志を助けて漏たる句をあたへたまはゞ何の幸如之。

九十九庵 文下

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