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私の旅日記
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2015年
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水前寺公園
〜成趣園〜
熊本市中央区水前寺公園に水前寺成趣園がある。
水前寺成趣園
寛永13年(1636年)、細川忠利のときに作られた御茶屋が始まり。この地に建立した寺の名称から水前寺茶屋と呼ばれていました。その後、寛文11年(1671年)、孫の細川網利の時に、現在とほぼ同じ規模の庭園が完成し、水前寺成趣園と名付けられました。「成趣園」という名称は、陶淵明の詩(帰去来辞)に因んで命名されたもので、年中絶えることのない湧水を持つ庭園は桃山式庭園の代表的なものです。
園日渉以成趣
園は日に渉って以て趣を成し
門雖設而常關
門は設くと雖も常に関せり
料金は400円。昔は無料だったそうだ。
古今伝授之間
古今伝授之間の由来
この萱葺の古風な建物を古今伝授之間と申します。今から凡そ400年程前、京都御所の中に建っていました。後陽成天皇の弟桂宮智仁
(としひと)
親王の書院を兼ねた茶室でございます。
この部屋で細川家初代の細川幽斎公が桂宮智仁親王に「古今和歌集の解説の奥儀」を伝授された由緒深い建物でございます。
後に桂宮家に於て此の建物を永く保存せんが為にその御領地山城国乙訓郡開田村(現京都府長岡京市)に在る長岡天満宮の境内に移し長岡茶屋と申されました。
その後、明治初年に之を縁故ある細川家に賜り大正元年に水前寺公園正面の現在地に昔の型通り移築されました。
屋内の杉戸には狩野永徳の「雲竜」(現在消滅)正面の襖に永徳の門人海北友松の「竹林七賢人」(現存)の絵があります。
この建物が建っている場所は細川藩時代、藩主の「酔月亭」が在った場所です。
古今伝授之間保存会
出水神社
元禄11年(1698年)6月24日、各務支考は熊本で水前寺の句を詠んでいる。
廿四日
熊 本
此日順正寺にいたる。是は近江の
李由
より便し給へるにぞありける。この寺の小僧達のものかきて得させよといふに、國の産なれば水前寺 の事を尋ね侍るに、江津の川上半里ばかりにあるよし。さるは水苔にてぞありける。
苔の名の月先凉し水前寺
『梟日記』
二月は着物で水前寺
2月は着物姿で水前寺成趣園訪れると、入園料が無料になるそうだ。
着物姿の家族は中国人だった。
明治31年(1898年)、
夏目漱石
は本妙寺で句を詠んでいる。
水前寺
湧くからに流るゝからに春の水
〔子規へ送りたる句稿 二十九〕
明治40年(1907年)8月15日、与謝野寛、
北原白秋
、木下杢太郎、
吉井勇
、平野万里の5人は水前寺を訪れている。
氏は今夕予の為めに水前寺畔の画津湖に船を泛べる準備がしてある、既に先発して待つて居る者もあると云ふ。厚意辞し難く発熱を犯して人車を聯
(つら)
ね、駛
(は)
すること一里弱、薄暮水前寺に着いた。水前寺はもと藩主細川氏の別墅
(べつしよ)
であつたが、今は一私人の有に帰して居る。之を市有として公園となす計画もあるさうだ。陰暦七夕
(しちせき)
の月明りで能くは見えぬが瀟洒幽静、一寸岡山の後楽園を小さくした趣がある。併
(しか)
し彼の旭川の水を引いた池は格別美しくも無いが、この水は池中到処に清冽の泉が噴き出すのであるから清々
(すがすが)
しい。
「五足の靴」
(画津湖)
明治43年(1910年)4月25日、河東碧梧桐は水前寺を訪れている。
普通の庭園と言えば、樹、石、水の配合がほぼ紋切形になっておる中に、この水前寺の作りはそれらの紋切形に対して一新機軸を成しておるような思いをして、しばらく岸に佇立していた。ただ背形に富士形の芝山を聳えしむるなど、後人のせずもがなの意匠は削除すべきである。なお序でに、園内の鮒汁屋、水前寺餅屋などの殺風景な建物も一掃すべきである。
『続三千里』
古今伝授之間と出水神社が見える。
昭和27年(1952年)11月14日、
高浜虚子
は水前寺吟行。
水中の落葉を掃くも水前寺
熊本は水の美しいところである。江津荘に泊り、熊本俳句会出席。水前寺吟行。水前寺の水の澄み切つた色に驚ろいた。水中を掃くのを見ながら、二十年程前に京都の瓢亭で同じさまを見たことを思ひだした。
『虚子一日一句』
(星野立子編)
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