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蕉 門

河野李由

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本名通賢。 明照寺 第十四世亮隅。

僧李由 字買年。近州之産也。居光明遍照寺 。釋名亮隅上人。嘗任律師。入蕉門而學風雅年久。故著韻塞・篇突・宇陀法師書。病死。年四十五。


 貞亨5年(1688年)、芭蕉が彦根から岐阜へ向かう途中で李由宛てに詠まれた句がある。

   東武吟行のころ、美濃路より李由が
   許へ文のを(お)とづれに

ひるがほに昼寐せうもの床の山
   翁


 元禄4年(1691年)5月1日、嵯峨にあった 去来落柿舎 に芭蕉を訪ね入門。

落柿舎




江州平田明照寺李由被問。

尚白・千那、消息有。

竹ノ子や喰残されし後の露
   李由

頃日の肌着身に付く卯月哉
   尚白


 元禄4年(1691年)10月、芭蕉は明照寺を訪れて句を詠んでいる。

元禄五年神な月のはじめつかたならん、月の沢ときこえ侍る 明照寺 に羈旅の心を澄して

たふとがる涙やそめてちる紅葉
   翁

 一夜静るはり笠の霜
   李由

『笈日記』 (彦根部)

「元禄五年」は元禄四年の誤り。

元禄辛未十月、明照寺李由子宿

当寺この平田に地を移されてより、已に百歳に及ぶとかや。御堂奉加の辞に曰く、「竹樹密に、土石老いたり」と。誠に木立もの古りて殊勝に覚え侍りければ

百歳の気色を庭の落葉哉


芭蕉は形見として李由に桧笠を与えた。

李由は桧笠を埋めて笠塚とした。


『諸国翁墳記』 に「笠 塚 湖東平田明照寺門人律師李由建」とある。

明照寺本堂


元禄6年(1693年)より着工、同14年に完成したものである。

 元禄8年(1695年)1月23日、芭蕉の百か日。

百日はこらへてつぼむ梅花哉


 元禄9年(1696年)12月、 『韻塞』 (李由・許六共編)。李由自序。千那跋。

 元禄9年(1696年)10月12日、芭蕉の三回忌に李由は 義仲寺 泊まっている。

   無名庵に泊りて

なつかしき夢見るひまや冬の月


 元禄11年(1698年)4月20日、 支考 は難波津を門出、西国旅行。

   支考が西国へ趣(赴)きけるに

若竹をとらえ(へ)て放わかれ哉


 元禄11年(1698年)、『篇突』(許六・李由編)。

宝永2年(1705年)6月22日、寂。享年44歳。

明照寺に李由の句碑がある。


乞食の事いふて寝る夜の雪

『韻塞』 (李由・許六共編)に収録されている。

李由の句

いつの時人に落けん白牡丹


菜畠の一うるお(ほ)ひやあきの雨


くろき物ひとつは空の雲雀かな

菜の花を身うちにつけてなく蛙


七夕は七ゆふだちの仕廻(しまひ)かな


寒菊や火を燒かたの眞さかり


袴着や聟入もありとしのくれ


野の人のうたのさかりや杜鵑

さし汐に走りあまるや浜千鳥


生壁に寄付かたき寒さかな


菰こしに笛の聞ゆるかれ野かな


新宅や大工のとまる夜の雪


唐獅子のかほてほとけのわかれかな


草菱よそれがおもひか萩すゝき

から獅子の顔て仏のわかれかな


戸袋の板の透間やきくの花


ちか道を教へちからや古柳


菜の花を身うちに付て啼蛙


藪入や親なき里の春の雨


躍るべきほどには酔て盆の月


名月は蕎麥の花にて明にけり


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