このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2012年
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原八幡神社
〜昼寝塚〜
彦根市原町に原八幡神社がある。
原八幡神社
社殿の左手に昼寝塚があった。
ひるかほに昼ねせうもの床のやま
出典は
『韻塞』
(李由・許六共編)。
「東武吟行のころ、美濃路より李由が許へ文のを
(お)
とづれに」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)、彦根から岐阜へ向かう途中で李由宛てに詠まれた句。
ひるね塚
芭蕉の句碑
ひるかおにひるねせうものとこのやま
俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い日にこの涼しい境内地で昼寝などしている。つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。
『蕉翁句集』
(土芳編)は「元禄七戌ノとし」とする。
『諸国翁墳記』
に「
江州鳥籠山
ニ
アリ 五老井連中建
」とある。
明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は昼寝塚を見て句を詠んでいる。
それよりかの宝珠院に行く。此山に祖翁の昼寝塚あり、其碑前にひさまつきて、
まつかせや夢吹よせて昼寝塚
『大和紀行』
明和8年(1771年)4月5日、諸九尼は床の山で芭蕉の句を思い出して句を詠んでいる。
床の山 は、ことにばせを翁の言の葉思ひ出てなつかし。
かむこ鳥の声も寝ほれて床の山
『秋風記』
昼寝塚の左に白髪塚があった。
恥ながら残す白髪や秋の風
聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士(陸奥の人)で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。
祇川は近江国朝日野の人。長らく陸奥仙台に住んで、彦根に帰り蕉門四世と称した。後、
幻住庵
に入る。
安永6年(1777年)、没。
中山道
原町
中山道
を行き、「芹川」に架かる「大堀橋」を渡ると大堀町。
旭森公園のフェンス沿いに「
中山道旧跡
床の山」の石柱があった。
ひるがおに昼寝せうもの床の山
鳥籠山につきましては往々異説がありますが、旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました。
「大堀橋」と「大堀山」
鞍掛山・鳥籠山
はるか昔、吉野から攻め上った大海人皇子と近江朝の大友皇子の軍が皇位をかけてここで戦いました。
また万葉集にもこの2つの山が詠われています。
淡海路の鳥籠の山なる不知哉川日
(け)
のこのごろは恋ひつつもあらむ
『万葉集』
(巻4−487)
「鳥籠の山」が大堀山で、「不知哉川」
(いさやがわ)
が芹川であるという説がある。
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