このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


百歳の氣色を庭の落葉かな

彦根市平田町に明照寺という寺がある。


明照寺山門


慶長4年(1599年)、現在地へ移転。

浄土真宗本願寺派 の寺である。

山門の右手に芭蕉の句碑があった。


百歳の氣色を庭の落葉かな

元禄4年(1691年)10月、明照寺を訪ずれた芭蕉は愛弟子 李由 よりこの庭の謂れをきいて詠じた句である。

時に芭蕉は48歳であり、李由が30歳であった。

奥の細道300年を記念して建立す。

   平成元年10月 彦根史談会

細 江  敏
俳号 砂童子

芭蕉翁笠塚・李由句碑


芭蕉翁笠塚

元禄4年10月、明照寺を訪れた芭蕉は愛弟子李由に形見として与えた桧笠を埋めて笠塚としたものである。

李由句碑

本名河野通賢。明照寺第十四世亮隅は李由と稱し、芭蕉の高弟である。現在の荘厳な本堂は李由の手に依るもので、元禄6年より着工、同14年に完成したものである。

宝永2年6月22日、寂。

乞食の事言うて寝る夜の雪

昭和58年(1983年)4月29日、彦根史談会細江敏建立。

妙法山明照寺


明照寺庭園


彦根市指定文化財【名勝】である。

庭園の奥に笠塚があった。


笠塚の碑
   李由

江東平田の邑、光明遍照寺の地に、先師芭蕉翁の笠塚あり。十四世の僧某、蕉門に入りて學をつむ事二十餘年、恩は琵琶湖より深く、教へは打出の眞砂より高し。朝には香華を備へ、夕べには句を練つて、推敲を定めむ事を祈る。むかし芳野山にのぼりては、花の明ぼのを見せかけ、竹植うる日は東坡が笠をうらむ。月のあみだ笠に、時雨霰の嚴めしき音を、侘びられたる俤もなつかしとて、死後に此の笠を乞ひうけ、終に土中にこめて、門人各一句をさゝげて、かの塚に同じく納む、世に報恩を殘したる、 長崎 に尾花塚、 深川 に發句塚、 越中 に翁塚、 木曾塚 は直に遺骨を葬る地なり。されば西行の塚とて、國々に殘したるも、此の類ひならん。あなかしこ。死後の門人、師にまみえぬ事を歎く事なかれ。はやく此の塚に來り。季札が劍をかけて、一句をたてまつらば、生前の門葉にひとしかるべしと、弟子李由字買年謹んでこれを書す。


元禄13年(1700年)、『雪の葉』(一吟編)刊。

湖上の 木曾寺 はまさしく其形を収し所なれは見る人立むかひて彼墮涙の碑にひとしきもむへ也。 伊賀の上野 は流石に故郷なるにそしたしきかきり引續て墓前の勤いと念比也けり美濃國杭瀬川の水草清く心さしむかへる 正覺寺 には釘貫さしまはして苔むせる塔面物靜也湖北平田の明照寺 には笠塚と名付て行脚の古笠を埋めるありとそはるかなる東武の深川には 長慶寺 の發句塚有よにふるは更に宗祇のやとり哉と書れ侍る短冊壹枚を以て塚のあるしとそなせりける

『諸国翁墳記』 に「笠 塚 湖東平田明照寺門人律師李由建」とある。

笠塚の右手に李由の句碑。


乞食の事いふて寝る夜の雪

『韻塞』 (李由・許六共編)に収録されている。

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