几右老人にいさなはれて愛染蜜院
に詣 祖翁の碑前にかしこまるは
生涯の本意なり。此碑や元禄それの年
義仲寺
と一時に建たりとかや、
文字の古ひさも覺へていと尊し。今扶桑に靈塚多しといへとも、此國
は出生地といひ先祖奕代の精靈をまつれる淨刹なれは、翁の精神も
かならすこゝにあつまり給ふなるへし。
| 家内皆杖に白髪の墓参とありし吟は、此精舎にての事なりとそ
| いたゝきに乙鳥も來たり塚の土
| 鳥醉
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大正13年(1924年)10月1日、
荻原井泉水
は愛染院で「芭蕉翁故郷塚」を見ている。
この塚というのは、元禄七年、芭蕉が大坂の
花屋
で病歿し、遺言に依って近江の義仲寺の葬斂を営んだ時、土芳卓袋の両人が会葬し、遺髪を貰って来て、此処に埋めたものである。碑面には「芭蕉桃青法師」、側に「元禄七甲戌年、十月十二日」と刻してある。(文字は土芳筆とのこと)。碑の上を蔽うて、約一坪程の堂がたてられかなめ垣を囲らしてある。すぐ後ろは鬱々たる竹藪、之を背景にして、この塚が非常に落着いた所を得ている。
内藤鳴雪
筆の「故郷塚由来記」
元禄七年十月芭蕉翁浪花の客舎に逝く。遺骸は粟津の義仲寺に葬せしも、郷里の門人土芳・卓袋等翁の徳を慕ひて、遺髪を菩提所たる伊賀上野愛染院内に埋め、一基の碑石を建て芭蕉翁故郷塚と称え里。此由来を汎く世に知らしめんとて翁の碑石を建て、翁の遺徳と共に永遠に伝へんとす。因つて故郷塚保存會諸氏等の請に應じ、其顛末を誌すと云爾。
鳴雪内藤素行
それから愛染院といふところに芭蕉の遺髪を埋めた故郷塚といふのがあるのを見に行つた。それはこの地の門人土芳、卓袋の二人が芭蕉の訃を聞いて柩の後を追つて義仲寺に行き、その遺髪を貰つて歸つてこゝに埋めたものであるといふことである。
「奈良街道」
昭和11年(1936年)3月24日、
種田山頭火
は故郷塚を訪れた。
三月廿四日 晴。
芭蕉遺蹟を探る——
故郷塚、瓢竹庵。
上野は好印象を与へてくれた。
昭和18年(1943年)11月23日、
高浜虚子
は愛染院の芭蕉忌法要に参列。
ここに来てまみえし思ひ翁の忌
笠置路(かさぎじ)に俤描く桃青忌
焚火するわれも紅葉を一ト握り
掛稲の伊賀の盆地を一目の居
十一月二十三日 伊賀上野、友忠旅館。愛染院に於ける芭蕉
忌。菊山九園居。
昭和38年(1963年)10月2日、
荻原井泉水
は伊賀上野へ。愛染院に詣でる。
愛染院芭蕉墓
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| 老樹は白梅と聞く墓前落葉のあたたかし
| 十月十二日
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