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俳 人
長月庵若翁
肥前大村藩藩士。堀孫左衛門。
可都里
『名録帖』
に「若翁 吉雄幸左衛門」とある。
享保19年(1734年)、大村藩士大村徳祇の六男として生まれる。
宝暦10年(1760年)、大村藩第八代藩主大村純保
(すみもり)
に従って江戸に出る。
宝暦12年(1762年)7月、脱藩。
明和年中、柏原本陣の
中村桂国
は長月庵若翁に俳諧を学ぶ。
明和年中、柏崎陣屋柳川義右衛門・長月庵若翁に文筆、俳諧を学ぶ。
『中村家略系図』
安永4年(1775年)、信州柏原の明専寺で寺子屋を開く。
安永四年大村浪人長月庵若翁
堀氏
明専寺に逗留、学塾を開く、学ぶ者多数来る
『中村家系譜』
天明7年(1787年)9月13日、長月庵若翁は大坂湊橋から船出。
見て来はや神と君との秋ふたつ
『
誹諧
曇華嚢』
13日夜、
人丸明神
に登り蛸壷塚を見ている。
天明8年(1788年)2月、福岡の蝶酔亭に滞在して太宰府に参詣。
天明8年(1788年)3月23日、長月庵若翁は武雄・俵坂を越えて
彼杵宿
に入った。
其後旧遊親族追々に来て對して再會に驚き新謁に歓ふ、殊に我しらぬ孫ともの膝のもとにすりよりて、ものさへ得いハす只うち泪くミたるすかた、稚こゝにも何おもひけむ、いとあハれなり
むら雨に小百合なてし子うつふきぬ
『
誹諧
曇華嚢』
天明8年(1788年)6月、長崎に着く。10月12日の芭蕉忌に
「尾花塚」
を探したが、分からなかった。長崎で越年。
長崎に尾花塚ありと
風俗文選
に見へはべれば、そこかしこ尋れどもしれず。魯町・
卯七
等が跡を追ふすき人もなければ、いつの代に頽廃せしにや、処さへさだかならず。悲むべし。此地の不雅なる事を。其後紗鹿といふ者しぐれ塚をきづくといへども、其地蕪穢にしてしかも俗碑に混ぜり。これ又かなしむに堪たり。野坡が徒などゝいひ立一党をむすび、昼夜奔走する族もあなれど、風雅といふ事をしらざれば、ひたもの蕉門を汚すに似たり。
『
誹諧
曇華嚢』
寛政元年(1789年)2月、帰途につく。
寛政2年(1790年)3月、『
誹諧
曇華嚢』(若翁編)刊。不二菴序。
寛政4年(1792年)4月12日、若翁は難波の
遊行寺
で芭蕉の百回忌を営む。
寛政4年(1792年)10月12日、若翁は尾道の俳人52人と芭蕉の百回忌を営み句会を催した。
寛政9年(1797年)、一茶は尾道に若翁を訪ねている。
長月庵を訪ふに、折から障子のつくろひなど見へければ、予も加
『与州播州雑詠』
亨和2年(1802年)、伊賀上野に庵を結ぶ。
文化2年(1805年)、伊賀の
愛染院
に「はせを故郷塚」建立。
文化7年(1810年)8月、若翁は芭蕉翁故郷塚を再興。
文化8年(1811年)1月28日、一茶は若翁を訪れる。
[廿]八 晴曇 長月庵若翁に入
『七番日記』(文化8年1月)
文化8年(1811年)閏2月12日、一茶は
成美
の随斎で若翁に会う。
十二晴 随斎ニシテ若翁泰呈ニ会ス
『七番日記』(文化8年閏2月)
文化10年(1813年)12月8日、柏原の本陣中村家で没した。80歳。
文化十年十二月八日於当所没
梅がゝや門よりおくの長い事
若翁
『三韓人』
弘化3年(1846年)、若翁の三十三回忌に門人逢室、芭蕉元社は若翁の句碑 を建立。
落る身を花に啼入る雲雀かな
若翁の句
ゆく水の御秡は更て星月夜
『宰府日記』
落る身を花に鳴込雲雀かな
『華鳥風月集』
杜若白きは男すかたかな
『其梅』
菊の虫妹に取らせて夕涼み
『たびしうゐ』
名月や故郷の空も水のうへ
『
俳諧
百家仙』
五月雨や今宵も軒のくさる音
『続雪まろげ』
閑古鳥啼や六日の加茂堤
『続草枕』
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